鏑木清方の世界:鑑賞と解説

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鏑木清方は、上村松園とならんで、近代日本画の基礎を築いた画家である。最後の浮世絵師とも呼ばれる。いずれにしても日本画の伝統を受け継ぎ、それを発展させたという意味で、日本の美術史上大きな役割を果たした。その神髄は美人画にあり、また風俗画も多く手掛けた。清方の風俗画は、瀟洒な随筆とあいまって、日本の一時期の断面を知るよすがとなっている。

清方の父条野栽菊は明治初期のジャーナリストであり、やまと新聞を発行していた。これは絵をふんだんにもちいて、時世の動きを紹介するというもので、一時期日本のジャーナリズムをリードする存在だった。これに三遊亭円朝が、落語の口述筆記を載せていたが、それが大いに人気をとった。清方には器用な所があって、円朝を始めとした読み物に挿絵を添える役を、少年時代からつとめたようだ。とくに円朝には可愛がってもらい、十七歳の時には、旅行に同行している。

こんな具合に画家としての清方は、挿絵画家としてスタートした。挿絵画家というのは、画家としてはあくまでも亜流で、芸術として認めてもらえるようなものではなかった。また浮世絵師の地位もそんなに高くはなかった。やまと新聞には、月岡芳年もかかわりがあって、その芳年に清方はいろいろ教わったようだ。だから鏑木清方を月岡芳年門に数える見方もある。

挿絵画家として出発したこともあって、名が知られるようになってからも、しばらくの間は物語性を感じさせるような絵を描いていた。「孤児院」とか「嫁ぐ人」といった作品はそうした傾向を代表するものだ。明治41年の第一回文展には「曲亭馬琴」という作品を出展したが、これも物語性を押し出したものだった。その物語性が、純粋な絵画芸術とは評価されない原因だと、清方は次第にさとるようになった。

鏑木清方の絵から、物語性が完全に払しょくされるようになるのは、美人画を描くようになってからだ。清方は、1925年に自分の娘をモデルにして「朝涼」を描き、1927年には友人の妻をモデルにして「築地明石町」を描いた。ついで「新富町」、「浜町河岸」を描き、清方美人画の傑作群を世に送り出した。これらの作品を通じて、鏑木清方は当世を代表する美人画作者としての名声を確立した。

しかし、戦争が本格化すると、美人画は非国策画と決めつけられ、大っぴらに発表するのが憚られるようになった。戦時中にも清方の創作意欲は衰えなかったと思われるが、傑作と呼ばれるものには乏しかった。清方は、美人画に代わって風俗画を描くようになるが、風俗画には物語の挿絵と共通する部分もあり、清方としては、おてのものだったようだ。

戦後には、再び挿絵風の絵を多く手掛けるようになる。「朝夕安居」とか「十一月の雨」といった作品がその代表的なものだ。なぜか清方は、同時代の日本ではなく、明治の、古き良き時代の日本をモチーフにとった。ここではそんな鏑木清方の代表的な作品をとりあげて、鑑賞しながら適宜解説を加えたい。







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