大乗の実践哲学:上山春平

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「仏教の思想」第四巻「認識と超越」は、前半で仏教学者服部正明による唯識派の思想的な骨格の説明があり、後半では上山春平による実践にかかわる説明がある。実践というのは、さとりにかかわることである。大乗仏教は、衆生にも仏になる可能性があると考える。そのためには相応の努力をしなければならぬが、それに必要な条件を示すのが、上山が「大乗の実践哲学」と称するものである。

「華厳経」は「般若経」と並んで唯識派の基本仏典とされるようだが、その中に「十地品」というものがある。これは菩薩の修行の階梯を十段階に分けて述べたもので、この階梯を踏むことによって、菩薩は仏になることができるとされる。仏になるとはさとりを得ることであるから、これは万人にとっての究極的な目標を示したものと考えられる。

唯識派は、華厳経の十地品をよりどころとしながら、我々が仏になるための条件を解明しようとした。それが上山のいう大乗の実践哲学である。十地とは、歓喜地に始まり法雲にいたる十の階梯をさし、菩薩としての初期のあり方から、仏として完成するまでの段階について説明したものである。菩薩はまず、自分自身の救いから出発して、次第に救いの対象を拡大し、最終的にはすべての衆生の救いを実現するようになる。その段階を法雲というわけであるが、こうした衆生の救いを説くところが、いわゆる小乗に対する大乗の特徴だとされるわけである。大乗仏教とは、万人の救いを目的とした宗教なのである。

上山は、唯識派の基本仏典として、解深密経(げじんみつきょう)、瑜伽師地論、成唯識論などをあげ、それらと華厳経の十地との関連を追及する。まず解深密経では十一地というものがとなえられ、瑜伽師地論では十二住となり、成唯識論では五位となる。いずれも華厳経の十地に対応し、それを詳しく述べたものである。上山は、これらのうちで成唯識論の述べる五位説を、唯識派大乗実践哲学の完成形と見ているようである。

五位とは、資糧位、加行位、通達位、修習位、究竟位のことをいう。資糧位は、悟りを得るための精神的なもとでを蓄える段階、加行位は、蓄えたもとでを悟りの実現に役立てるための修行を加える段階、通達位は、唯識中道の真理に到達し、外界も自我も実在しないという真理を確立する段階、修習位は、悟りのさまたげになるものを克服してゆく段階、究竟位は、究極的なさとりを得た段階をさす。華厳経の十地は、このうちの修習位の段階に位置付けられる。いずれにしても、以上の各段階を経ることで、菩薩の境地から仏の境地へと飛躍すると考えられているわけである。

上山はこうした唯識思想をそれだけ切り離して論じるのではなく、小乗のアビダルマや大乗の中観思想との関連において考えようとする。そしてこれら三者の関係を、西洋哲学の研究者らしく、ヘーゲルの三段階論を援用して説明する。すなわち、アビダルマをテーゼとし、中観思想をアンチテーゼとし、唯識をジンテーゼとするのである。こうすることで上山は、唯識にはアビダルマや中観思想が包含されているとする。つまり唯識は、仏教のもっとも高度な段階をあらわしていると主張するわけである。

ヘーゲルに言及したついでに上山は、形式論理と弁証法論理の関係についても述べている。形式論理には矛盾律があるが、弁証法論理には矛盾はかならず生ずるものと前提されている。これはどういうことか。上山は、形式論理は一つの世界を前提としているのに対して、弁証法論理は二つ以上の世界を前提としているという。異なった世界の間では、矛盾が生じてもおかしくはないというのである。小生が思うには、上山のいう二つの世界とは、生成過程の異なる段階を意味する。形式論理が静的で安定した(無時間的な)状態を前提としているのに対して、弁証法論理は絶えす生成変化する(時間を含んだ)状態を前提としているので、一見して前後で矛盾するような事態も生じるのである。






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