神樹:鄭義を読む

| コメント(0)
大江健三郎は鄭義との往復書簡の中で、長編小説「神樹」を評して、魔術的リアリズムの完成されたものだと書いた。「終幕の、八路軍の亡霊兵士と農民たちが、地方の象徴である巨樹を守って解放軍にいどむ反乱と敗北のシーンは圧倒的です」と書いているから、魔術的というのは、亡霊と現実の人間とが交差しあうさまを表現した言葉なのだろう。たしかにこの小説は、生きている人間ばかりでなく、死んだ人間の亡霊たちが沢山出て来て、それらが大きな役割を果たしている。そればかりではない、題名になっている巨樹もまた、現実の世界に巨大な影響を及ぼす。その影響はまさしく魔術を彷彿させるので、魔術という言葉はこの巨樹について言うのが相応しい。この巨樹が存在せず、死んだ亡霊たちが出てくるだけだったら。魔術的というよりも幻想的という言葉のほうがあたっているだろう。

その魔術的リアリズムの手法を以てこの小説が描きだしているのは、中国近現代史の一コマである。その一コマに読者は、中国近現代史の典型的な姿を見ることになるだろう。この小説は、山西省の山の中の一小村を舞台にして、そこに生きている人々の行動や考え方を描いているのだが、それを小生のような日本人が読むと、彼我の落差の大きさを感じずにはおれない。我々いまの日本人は、この小説の登場人物のような強い郷土愛のようなものを持たないし、またかれらのような強い自我意識も持たない。彼らの自我意識は、共同体への連帯意識と強く結び付いているのだが、その一方で、グロテスクなほどにエゴセントリックでもある。中国人というのは、エゴイズムと共同体意識とがあまり矛盾せずに共存している独特な存在だと思わされるほどである。

この小説世界の人々の共同体意識は、幾世代にもわたって同じ村に暮らしてきたことに根差している。かならずしも協同生活ではないが、生活の基盤を共有していることで、強い共同体意識が育まれて来たのだ。人口は精々数百人単位だが、三つの氏族が中心を占め、血のつながりも深いようである。そういう事情が強烈な郷土愛を育む一方、お互いに敵愾心も持っている。その敵愾心は、生活基盤の相違から生まれたということになっている。革命以前は、一握りの地主が大勢の人を隷属させていたので、そういう関係が敵愾心を育んだわけである。だがその敵愾心も、外部からの攻撃に対しては抑制され、人々は立場の相違を越えて団結するのである。

その団結の象徴が神樹なのだ。この神樹が人々を一つにまとめる。そこから生まれた団結が、どういうわけか権力に睨まれる。権力は、神樹が人々の迷信を煽り立てているという理由で、これを壊滅させようとする。それに対して村の人びとは一致団結して抵抗し、命をかけて戦うのである。その戦いの様子は権力による庶民の弾圧という点で、中国現代史を彩る様々な弾圧、とりわけ1989年の天安門事件を彷彿させる。じっさいこの小説は、天安門事件を念頭に置きながら書かれたフシがあるのである。作者の鄭義自身、天安門事件にかかわり、そのことでお尋ね者になった。かれは権力の追及を逃れるために国外に亡命せざるを得なくなった。この小説を書いたのは、亡命先のアメリカでなのである。

そういう事情から、この小説を、天安門事件への批判と見る見方もあるようである。たしかにそういう側面を強くもっていると言えよう。だがそれにとどまらないスケールの大きさがこの小説にはある。中国の庶民のなかに息づいている伝統的な思考枠組みとか、階層間の対立とか、中国現代史を彩る様々な出来事への言及があるし、また暴力とかセックスといった現代文学には不可欠の要素もふんだんに盛られている。中国人は、儒教道徳に染まったことで、性を抑圧する傾向が強いと言われるが、この小説を読む限りでは、少なくとも庶民のレベルでは、性に対してかなり開放的である。暴力については、中国人の暴力の爆発ぶりは、かの文化大革命で代表させられるようだが、それを含めて、この小説には暴力が社会を動かす原動力のように描かれている。

この小説がカバーしている時代は、抗日戦争から中華人民共和国の成立を経て、大躍進、文革、改革開放と天安門事件に至るまでの現代中国数十年のスパンである。そのスパンの中で、全国の動向をそのまま反映するような形で、この村にも様々な事件が起きる。この村を舞台にした抗日戦争の一こまとか、革命にともなう村の権力の移動とか、文化大革命時には文革の波に乗った形で権力の移動が起きるし、改革開放の時代にはかつて地主として村に君臨していた一家が再び権力を回復するとか、といった具合だ。小説は、それらの権力を体現した人々を中心に展開していくのだが、登場するのは彼ら生きている人間たちばかりではない。すでに死んでしまった人間の亡霊たちも出てきて、生きている人間と同じように振る舞うのだ。それだけでも小説としては破天荒な設定だが、破天荒なのはそれだけではない、語り口もそうなのだ。この小説は、直線的な時間軸にそって展開するわけではない。現在の時間軸の中に突然過去の時間が紛れ込んで来たり、あるいは前後が入れ替わったり、同じ時間がくりかえし円環的にあらわれたり、要するにリアルな時間意識をまったく無視した形で話が展開していくのである。そうした自由な時間の扱いかたは、フォークナーが始めて導入したものだが、鄭義のこの小説は、それを極限的なまでに推し進めている。





コメントする

アーカイブ