金剛般若経を読む

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般若経は、数ある大乗経典のうちで最も早く成立したと言われる。単一の経典ではなく、いくつかの経典からなっており、複数の人びとによって、紀元前後の百年ほどの間に、漸次的に書かれたと思われる。それらの経典に共通する思想は、「空」という概念である。「色即是空」とは般若心経の有名な言葉だが、この短い経は般若経の思想を集約しているのである。その般若経のなかでも、般若心経と同じくらいよく読まれて来たのが金剛般若経である。この経は比較的短いので、読みやすかったからであろう。

鳩摩羅什(クマラジーヴァ)訳の漢訳金剛般若経は、正式には金剛般若波羅蜜経という。金剛はダイヤモンドのこと、般若は智慧、波羅蜜とは完成されたものという意味。ダイヤモンドのように硬いもので煩悩を打ち砕く智慧の完成されたものというような意味である。

金剛般若経は、般若経の経典のうちでももっとも早い時期に成立したものと考えられる。般若経の根本思想である空の思想を語っているのだが、面白いことにその「空」という言葉を一切用いていない。そのかわりに、独特のロジックを使って、空に相当する思想を語っている。空とは、あらゆるものには実体がないという思想である。対象世界ばかりでなく、自我にも実体はない。この世界は夢の如くはかないものなのだということを、空の思想は主張している。その思想を金剛般若経は独特のロジックを使って展開しているのである。

その金剛般若経を、テクストに沿いながら読み解きたいと思う。使ったテクストは岩波文庫版(中村元、紀野一義訳注)。これは鳩摩羅什訳の漢訳のほかに、サンスクリット語の本文を邦訳したものを併催している。この両者を対照しながら読むことで、経典の言わんとするところがよりよく理解できる。

大乗経典の多くのものは、仏陀と弟子の間で交わされた対話という形をとっているが、金剛般若経も同様であり、仏陀とその弟子須菩提(スプーティ)の対話という形をとっている。

冒頭に如是我聞(かくの如く我は聞けり)という言葉を置くのは、ほかの多くの経典と同様である。経典の作者が、仏陀の業績を紹介する常套のやり方と言ってよい。この経の場合には、次のような設定になっている。

あるとき仏陀は、千二百五十人もの修行僧たちとともに舎衛国の祇樹給孤独園(ジュータ林にある孤独なものに食を給する長者の館、平家物語に出て来る祇園精舎のこと)に滞在していた。朝食を済ませた仏陀が、座禅をしながら精神を集中していると、多くの修行僧たちは、近づいて仏陀の両足を頭に戴き、仏陀のまわりを右回りに三度まわってかたわらに座った。これは貴人に対するインド流の礼儀作法であり、それを日本の仏教寺院でも受け継いでいる。すなわち仏像に向って右肩を向けながら立つのである。

その修行僧たちの中に、長老須菩提もいて、右の肩をはだけ、右の膝を地につけ、合掌しながら仏陀に言った。「世尊よ、善男子善女人、阿耨多羅三藐三菩提の心を発さんに、まさに、いかんが住すべき、いかんがその心を降服すべきや」と。阿耨多羅三藐三菩提とは、「このうえない正しい悟りに向かう心」という意味であり、求道者の道をめざす心のことである。その心を得るためには、どのようにしたらよいのか、と聞いているわけである。

それに対して仏陀は次のように答える。「あらゆる一切衆生の類、もしは卵生、もしは胎生、もしは湿生、もしは化生、もしは有色、もしは無色、もしは有想、もしは無想、もしは非有想、もしは非無想なるもの、われ、皆、無余涅槃に入れて、これを滅度せしむ。かくの如く無量無数無辺の衆生を滅度せしめたれども、実には衆生の滅度を得るもの無し」と。前半部の言葉の羅列は、地上のあらゆる存在という意味。そのあらゆる存在について、仏陀である自分はかれらを滅度(さとりを得させること)させたけれども、実際に衆生が滅度したことはないのだ、と言うのである。滅度させたが、実際には滅度していないと言うのだから、この言い方は形式論理的には矛盾していると言わざるを得ない。だが仏陀にとっては矛盾でも何でもない。そういう矛盾めいた表現をするところが、この経典の最大の特徴なのである。

上のように述べた理由を、仏陀は次のように説明する。「もし菩薩に、我相、人相、衆生相、寿者相あらば、すなわち菩薩に非ざればなり」と。我相とは自我という思い、人相とは人間として生きているという思い、衆生相も寿者も個人という思いを言う。要するにこれらの言葉で、自我をあらわしているわけである。その自我というものにこだわっている限り、そのものはもはや求道者とはいえない。だから自分のことをそのような自我を持ったものと思うなら、そのような自分が衆生を滅度させるわけにはいかない。自我を持たない限りにおいて、真に衆生を滅度させることができる。というような意味合いが、この言葉には込められているのである。このように回りくどい言い方をするのは、この経典の大きな特徴で、以後至る所で同じようなレトリックが駆使される。

ともあれ仏陀は、次のように付け加える。「菩薩は法においてまさに住する所無くして布施を行ずべし」と。法とはこの場合、物事というほどの意味。物事にとらわれない心で施しを行え、言い換えれば求道者はものにとらわれて施しをしてはならない、という意味である。施しをする場合には、施しという意識さえ持たず、虚心に施すべきである、ということである。

仏陀はまた続けて言う。「色に住せずして布施し、声・香・味・触・法に住せずして布施するなり。須菩提よ、菩薩はまさにかくの如く布施して相に住せざるべし。何を以ての故に。もし菩薩、相に住せずして布施せば、その福徳は虚空に思量すべからざればなり」と。色は形のこと。声以下は心の働きの対象のこと。それらすべてのものにとらわれずに布施すべきである。そのような布施がもたらす福徳は、およそ考えの及ばない程計り知れない。

そこで計り知れないことの比喩として、東方の虚空があげられ、また南西北方四囲上下の虚空の計り知れなさがあげられる。それらが計り知れないのと同じように、物にとらわれない布施のもたらす福徳は計り知れないのである。

仏陀は更に、身相を以て如来を見るべきやいなや、と問う。身相とは如来が備えている身体的な特徴のことで、三十二あることから三十二相とも呼ばれる。そうした特徴を以て如来を見るべきではないというのであるが、その意味は、そのような特徴は虚妄にすぎないからであり、そういうものにとらわれずに如来を見なければならぬ、つまり虚心に如来を見るべきである、ということである。

以上で言わんとしているところは、物事にとらわれたり、あるいは外見にとらわれてはならない。行為はものにとらわれずにせねばならぬし、人を判断するのに外見にとらわれてはならない、というようなことである。要するにすべて虚心にならねばならないということを、まず説いているのである。






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