ドイツ・イデオロギー

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「ドイツ・イデオロギー」は「聖家族」に続いてマルクスとエンゲルスの共同著作である。とはいえ、本文のほとんどはエンゲルスが執筆している。「聖家族」の方はマルクスが大部分を執筆しているから、この二つの著作は相補う関係にあるといえる。テーマも青年ヘーゲル派批判の部分では一致している。「ドイツ・イデオロギー」はそれに加え、真正社会主義への批判を通じて共産主義への展望を示している。

小生が若い頃に読んだ「ドイツ・イデオロギー」は、大月書店版の全集(第三巻)によってであるが、これは当時権威をもっていたアドラツキー版に基づく翻訳である。ところがこのアドラツキー版の「ドイツ・イデオロギー」の部分は、原稿をかなり恣意的に編集したもので、偽書といってもよいような代物らしい。そこで日本の広松渉が一肌脱ぎ、原稿に忠実な版を作成した。岩波文庫の最新版に収められている「ドイツ・イデオロギー」は、そのうち「フォイエルバッハ」に関する部分である。「ドイツ・イデオロギー」全体は二巻からなり、第一巻はフォイエルバッハのほか聖ブルーノ、聖マックス(いずれも青年ヘーゲル派)、第二巻は真正社会主義の批判からなっている。

「フォイエルバッハ」の部分も、ほかの部分同様、本文のほとんどをエンゲルスが執筆している。マルクスは書きかけの序文のほか、「フォイエルバッハに関するテーゼ」という、十一の段落からなる、簡単なメモを残している。これを含めて「ドイツ・イデオロギー」が彼らの存命中に刊行されたことはなく、したがってか原稿は文章として完成されていない。そんなこともあって、非常に読みにくいし、またまとまりにも欠けている。それを前提に読むほかはないが、言わんとするものは伝わって来る。それをごく簡単にいえば、当時のマルクスが疎外論の立場から人間の開放(それは類的存在としての人間の本質の開放という形をとっていた)を目指したのに対して、エンゲルスの場合にはもっと実践的な形で、つまり革命を通じて人間の存在基盤である労働本来の姿を人間らしいものに取り戻すという主張である。

つまりこの当時には、エンゲルスはマルクスに比べ、いっそう現実的な考え方をしていたということができる。マルクスは外化とか自己疎外とか類的存在とか、ヘーゲルのタームを用いてかなり観念的なものを感じさせる面を持っていたが、エンゲルスにはそうした観念性はほとんど見ることがない。徹底して即物的なのである。マルクスには人間には本来あるべき姿というものがあり、それを前提にしながら、それから疎外されている状況から、自らを開放するのだというような理想主義的な面が強い。それに対してエンゲルスは、そういう理想主義的な側面は非常に弱い。エンゲルスが重視するのは労働だが、その労働が他人のために搾取され、したがって辛いものになっているから、それを我慢できるものに替えたい。そのためにはあれこれと頭のなかで理屈をこねまわしているのではなく、生きている現実全体を変革しなければならない。その変革は革命によって達成される。というのがエンゲルスの基本的な考えである。

エンゲルスはその考えを、自分なりに資本主義経済の現実を研究することから学んだのだと思う。エンゲルスは体系的な大学教育は受けておらず、工場経営者の卵としての立場から資本主義社会の現実を観察し、そこから資本主義経済の基本的傾向を推論したのだと思うのだが、それがかえってエンゲルスをして、足で立ちながら頭で考えるという人間本来の姿勢を取らせるようになった。マルクスはエンゲルスより二歳年長で、当時最高の大学教育も受けていたが、資本主義経済の見方については、エンゲルスから学ぶところが多かったに違いない。

ここで、広松渉による「ドイツ・イデオロギー」のテクストを取りあげる。これはフォイエルバッハを論じた部分だが、よく読むと、二つの柱からなっている。一つは青年ヘーゲル派批判であり、もう一つは資本主義社会の変革とその先にある共産主義社会のあり方についての基本的な展望である。これは「ドイツ・イデオロギー」全体の構成に対応しているので、いわば「ドイツ・イデオロギー」の縮図あるいは要約といってよいほどである。

エンゲルスは前半で青年ヘーゲル派の批判を通じて、現実的な人間の見方を提示するのであるが、エンゲルスによれば、人間とは自己意識に還元されるようなものではなく、労働を通じて自己を生産していくものなのである。労働こそ人間を人間たらしめている本質的な要素だとはマルクスもある程度考えていたが、エンゲルスはそれをより一層明確に表明した。エンゲルスはのちに、猿が人間に進化したのは労働を通じてだといって、労働が人間にとって持つ本質的な意義を主張したわけだが(猿が人間になるについての労働の役割)、こうした考えはすでにこの論文を執筆した当時から抱いていたわけである。

エンゲルスの人間の本質についての考えは、次の言葉に集約されている。「諸個人がいかにして(自己を発現する)自己の生を発現するか、それが、彼らの存在の在り方である。彼らが何であるかということは、(それゆえ、彼らの生産様式の内に示される)それゆえ、彼らの生産と合致する。すなわち、彼が何を生産するか、(同様に)ならびにまた、彼らがいかに生産するかということ(の内に示される)と合致する。それゆえ、諸個人が何であるかということは、彼らの生産の物質的諸条件に依存する」。ここでエンゲルスが生産と言っているのは、労働を含めた人間の社会的な活動全般を指している。人間は、青年ヘーゲル派が考えるような孤立した抽象的な存在なのではなく、社会的かつ現実的な存在なのである、というのがエンゲルスの基本テーゼである。

エンゲルスが労働の重視とならんで提示するのは、存在が意識によって規定されるのではなく、意識が存在によって規定されるとする唯物論的な考えである。唯物論はマルクスも主張していたのだが、エンゲルスの唯物論はより一層即物的である。エンゲルスは意識にあらゆる意味での自立性を認めない。意識は存在を反映しているに過ぎないといった、きわめてドラスチックな即物性を押し出すのである。エンゲルスによれば、「意識とは意識された存在以外の何ものでもありえない。そして人間の存在とは、彼らの現実的な生活過程のこと」なのである。

エンゲルスが思想に重要性を認めるのは、それが支配階級の利害を反映するものとしてのイデオロギー機能を果たす限りにおいてである。イデオロギーというのは、支配階級の利益を、あたかも社会全体の利益であるように偽装するというのがエンゲルスの考えだ。エンゲルスは言う、「支配階級の思想が、どの時代においても、支配的な思想である。すなわち社会の支配的な物質的威力である階級が、同時に、その社会の支配的な精神的威力である」。したがって、王権と貴族とブルジョワジーが支配権をめぐって争っていたモンテスキューの時代には、これら三つの階級の利害調整のイデオロギーが、三権分立という思想を生みだした。それがいまでは「永遠の思想」にまで祭り上げられたというわけである。






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