中国庶民の性意識:鄭義「神樹」

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鄭義の小説「神樹」には露骨な性描写が多い。これは意識的にそうしているようだ。鄭義自身あとがきの中で、「鬼神生死に××××」が自分の創作心得だと言い、また「溌溂とした性描写は作品が歴史を超えて生命に達する助け」になると書いている。後段の言葉はともかく、前段に出て来る四文字言葉などは、小生のような謹厳君子を自認する人間には恥ずかしくて言えないのであるが、それを鄭義はさらりと何事もないように言うのである。

かつて本居宣長翁は、中国人は男女の性愛を軽蔑したが、それはかれらが悪人だからであって、善人である日本人は、男女の性愛を大事にしたと言い、男女の性愛こそは「もののあはれ」をもっとも感じさせるものだとも言った。しかしその宣長翁の言葉は、かならずしも中国人全体にはあてはまらぬようである。少なくとも鄭義の上述の言葉からは、そう伝わって来る。中国人の中には、「鬼神生死に××××」を大事にする人間もいるのだ。「鬼神生死に××××」を軽蔑するのは、おそらく儒教道徳に毒された士大夫階級だけなのだろう。庶民レベルでは、中国人の庶民も日本の善人も異なるところはないようである。

だが、こと文学という次元になると、やはり男女の性愛は、中国ではあまり大っぴらに描かれることはなかったようだ。「金瓶梅」とか「紅楼夢」といった長編小説が男女の性愛を描くことはあったが、日本の小説と比べれば、やや様式的な印象が強く、男女の自然な恋愛と言うには及ばないような気がする。それに対して日本文学の伝統は、「源氏物語」以来、男女の恋愛を描くことに関しては、ことこまかな感性を発達させてきたのである。

その日本文学でも、男女が対等の立場で愛し合うという例は少ないように感じる。徳川時代には、近松に見るように、男女の恋愛は身分と深くからみあっていた。身分不相応な恋愛が愛するものたちの破滅をもたらす、というような筋書きが多かったように思える。明治以降の近代文学においても、男女が対等の立場で愛し合うところを描く、いわば正統な恋愛小説は少ないのではないか。漱石の場合、恋愛は大部分が姦通という形をとっているし、川端康成の場合には芸者とか踊り子を相手に、身分の高い男が独り相撲をとっているような風情である。大江健三郎とか村上春樹になると、女性の側の自主性は相当高くなるが、それでも男女が互角に愛し合うと言うには遠い。

鄭義の「神樹」における男女の性愛はどのように描かれているか。これも男女が対等に愛し合うというよりも、強い立場にある男が、弱い立場の女をものにするといった例が多く、その立場の相違は、身分とか階級とかに深く結び付いている。この小説には、いくつかのカップルの男女関係が描かれているが、それらを検討してみることによって、中国庶民の男女の性愛の特徴のようなものを剔抉してみたいと思う。

石建富はこの小説の最も重要な人物の一人だが、かれは若い頃に失恋の体験があった。李来弟と愛し合っていたのだが、貧農であった彼は、彼女を地主の趙伝牛に奪われてしまったのだ。しかも妾にされるという形で。彼にはその復讐の機会がやってくる。革命後の混乱の中で、趙伝牛を階級の敵として殺し、その妾だった李来弟をものにするのだ。李来弟は喜んで石建富に抱かれたわけではない。今や村の権力者になった石建富を頼らなければ、生きてはいけなかったためだ。そんな彼女を抱きながら、石建富は自分の一物を自慢する。それに対して李来弟は、死んだ伝牛のと比べたら一回り小さいと思いながらも、口では「ウワァ、スッゴーイ」とお世辞を言うのだ。

死んだ伝牛としては、自分が死んですぐに、妾の来弟が、自分を殺した石建富に抱かれたことが許せない。そこで幽霊になって出て来て、彼女を売奴呼ばわりするのだ。一方で、殺されたとはいえ、チンポコを天に向けながら死んだことには満足している。中国庶民には、死ぬ時にはチンポコを天に向けたいという願望があるようなのだ。

李金昌は、石建富を退けて権力を握ったのであるが、かれには意地汚いところがあって、権力をかさにして、女たちを次々と手籠めにする。そのやり方は実に卑劣なもので、女の弱みにつけいって、むりやり強姦するのだ。たとえば趙鳳尼。彼女は空腹のあまり食べ物を盗んだところを李金昌に知られ、無理やりやられてしまうのである。その時にはまだ少女の年齢だった。草珠子も少女の時に李金昌にやられた一人だった。だが彼女にはそれを恨んでいる様子はないので、半分は喜んでいたのだろうと伝わって来る。彼女は四十近くになるまで、李金昌に抱かれ続けるのだ。

趙伝狗は貧農で、乞食まがいのことまでする男だが、そんなわけだから、日頃女には縁がない。そんなかれに女と仲良くなるチャンスが訪れる。土地改革の吹き荒れる時代に、大勢の地主たちが虐殺されたことがある。そのさいに、地主の娘だった仙児も襲われたようで、彼女の死体と思われるものが川を下って流れてきた。その死体を見て催した伝狗は、無理に交わろうとするのである。すると死んだと思っていた仙児が息を吹き返す。それを見た伝狗は、「ハハーッ、俺がやったんで仙児が生き返ったぞ!」と叫んで喜ぶのである。

こんな具合に、この小説で描かれる男女のからみあいは、どれもみな変態的なものである。男女が互いに心から望んで抱き合うわけではない。すくなくとも女のほうは、災難にあったような気持ちで男に姦淫されるのである。まるでこの世には、姦淫以外に男女の交わりの姿はないという具合にである。鄭義がどんなつもりで、そういう形で男女関係を描いたのか、多少の興味をかきたてられるところである。というのも、鄭義は、「溌溂とした性描写は作品が歴史を超えて生命に達する助け」になると言うのだが、この小説に描かれた男女関係が、溌溂とした性愛とはとても言えそうにないからだ。





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