ロバンソン小説:夜の果ての旅

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大江健三郎には、自分の小説の中でさまざまな文学作品を取りあげ、それへの注釈の形で自分の思想を吟味するという癖があった。「さようなら、私の本よ!」という小説では、セリーヌの「夜の果ての旅」を取りあげている。だが、詳しい注釈をしているわけではない。詳しい注釈はT・S・エリオットの詩に対して施され、「夜の果てへの旅」については、「おかしな二人組」の先例として紹介している程度だ。「おかしな二人組」というのは、大江が自身の晩年の三部作に冠した通称で、大江自身の分身と、それの更に分身と思われる人物との、おかしな二人組の繰り広げる物語を語ったものだった。その大江にとって、セリーヌの「夜の果ての旅」に出て来るバルダミュとロバンソンは、おかしな二人組の先駆者として映ったようなのだ。大江はその小説の中で、おかしな二人組が協力し合って、「ロバンソン小説」なるものを創作しようとするところを描いている。

たしかに、バルダミュとロバンソンの関係は、おかしな二人組と呼ぶにふさわしいものだ。かれらは互いが互いの影であるかのように、つねにどこかでつながっているし、ひきつけあったり、反発しあったりしている。似た者同士とも言えるし、腐れ縁ともいえる。あるいは壊れた鏡に映った自分の顔を見るような、かならずしも肯定的な感情を呼び覚ますとは限らない関係とも言える。要するにおかしな関係なのだ。

小説の中で二人が初めて出会うのは戦場でだった。その時のバルダミュは、ドイツ軍の捕虜になってもよいから、戦線から抜け出したいと思っていた。ロバンソンも同じだった。人殺しは自分の柄じゃないというのだ。それはバルダミュも同じだった。そこで二人は互いを自分と似たもの同士と受け取ったのである。

二人が二度目に会うのは、バルダミュが軍役から離脱して、ぶらぶらしている時、死んだ戦友の母親の家でだった。その母親は気前が良くて、100フランくらい小遣いをくれるだろうと仲間の男が言うので、バルダミュはその100フランに惹かれて、その母親に会いに行ったのだった。ところが彼女は死んでいて会うことができず、かわりにロバンソンに会ったというわけなのである。ロバンソンも又、その母親の気前の良さをアテにしていたようなのだ。

三度目に会ったのは、アフリカの奥地でだった。その奥地にある商事会社の支店にバルダミュは支店長として赴任したのだが、その支店長の前任者がロバンソンだったのだ。かれが何故そんなところにいたのか、それはわからない。ロバンソンは自分から名乗らなかったし、また、金庫を持って逐電してしまったからだ。そんなロバンソンを、バルダミュは懐かしく思う。フランスから遠く離れた最果ての地で、センチメンタルになっていたからだろう。

アメリカへ渡ってからも、バルダミュのセンチメンタルな気分は続いた。その気分がロバンソンをなつかしく思わせた。大した根拠もなく、かれはアメリカにロバンソンが先回りして、来ているような気がしたのだ。だがアメリカで二人が会うことはなかった。

アメリカからフランスに戻ったバルダミュは、医学部に入り直して医師免許をとり、パリ郊外のランシイという所で開業した。実在しない地名のようだが、クリシー広場の近くという設定だから、パリ市街の北西部だ。場末ということになっている。だから患者には金払いのよい人間はほとんどいない。バルダミュの仕事はあまり忙しくはならない。それでも何人かの患者はいる。その患者のうちの一人を、死なせたりする。ベベールという子供で、チフスにかかったのだが、バルダミュにはチフスを治療する技術がないのだ。およそ藪医者の部類に入るのだろう。

そんなバルダミュのところへ、ロバンソンが訪ねてくる。バルダミュはどういうわけかロバンソンをうとましく思い、もう会いたくないとも思うのだが、なんとなくかれを受けいれてしまう。ロバンソンはバルダミュに仕事の世話をしてほしいと言うのだが、それがかなわないと見るや、ロバンソンの患者に近づいて、金の手づるを求めようとする。患者の中にアンルイユ一家というものがあった。中年の女房とその夫、夫の母親の老婆である。女房はしたたかな女で、老婆の財産を狙っている。そこで老婆の暗殺計画をたてて、それにロバンソンを巻き込む。ロバンソンに爆発の仕掛けをつくらせ、それで以て老婆を爆殺しようというのだ。ところがその仕掛けにロバンソン自身がひっかかって大けがをする。両目を失明するのだ。

女房は、老婆をトゥールーズに厄介払いする。その前に老婆の息子である亭主が不可解な死に方をする。トゥールーズへはロバンソンを同行させる。暗殺の対象とその実行候補者とを一緒に厄介払いしたわけだ。

トゥールーズでロバンソンは一人の女と懇ろになる。この女マドロンは尻軽で、ロバンソンを訪ねてトゥールーズにやってきたバルダミュともセックスするのだ。ともあれロバンソンは、どういうわけか老婆を殺害するのである。

パリにもどったバルダミュは、さる精神病院で働くようになる。そこの病院長が病院経営をロバンソンにゆだねて海外旅行を楽しむ生活に入ると、バルダミュは実質的な院長におさまる。そんなところへロバンソンが訪ねて来る。マドロンが鼻持ちならなくなって、逃げ出してきたようなのだ。そんなロバンソンをバルダミュは、またもや受け入れて病院に居場所を与えてやる。

そんなロバンソンを追って、マドロンがやって来る。マドロンはロバンソンとよりを戻したいのだ。ところがロバンソンにその意思がないと見るや、俄然ロバンソンを殺しにかかる。タクシーの中でロバンソンの腹に拳銃の弾を打ち込むのだ。その結果ロバンソンは死んだ。そこでこの小説は終る。あたかもおかしな二人組の物語は、相棒がいなくなることで存続する意義がなくなったといわんばかりに。

こんな具合にこの小説は、バルダミュとロバンソンというおかしな二人組の出会いから別れまでを描いているわけである。死が漂う戦場が二人を出合わせ、死そのものが二人を引き離したわけだ。二人が生きている間は、この世界に対する嫌悪感を共有していた。その嫌悪感が唯一二人を結びつけるものだったので、それは強固な結びつきとはいえない。だから、その嫌悪感が弱まると、二人を結びつける紐帯も緩むというわけである。じっさいこの小説の最後の言葉は、世界の受容を感じさせる言葉なのだ。いわく、「もう何も言うことはない」





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