汚れなき悪戯:ラディスラオ・バホダ

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1955年制作のスペイン映画「汚れなき悪戯(Marcelino Pan y Vino)」は、聖人の伝記ともいうべき作品。伝記と言っても、この聖人マルセリーノは五歳で死んだことになっているので、伝記というよりは、少年はいかにして神に召されたか、というような設定になっている。この少年マルセリーノは、母親が恋しいあまりにイエスキリストに会わせて欲しいと頼み、それをイエスキリストが受け入れて、少年を天国の母親のもとに連れて行くのであるが、それは信仰深い人びとにとって、感動的に受け取られ、この少年を聖人としてあがめるようになったのである。

この映画は、スペインのある村を舞台にして、聖マルセリーノの祭の由来を、一神父が病気の子供に向って語って聞かせるという形で展開していく。

対仏戦争で廃墟となった修道院を、三人の僧侶が復興する。復興された修道院には十二人の僧侶が暮らすようになるが、その彼らの目の前に、生まれたばかりの男の子がもたらされる。誰かが修道院の門前に捨てて行ったのだ。僧侶たちはその子を、その日の聖人の名にちなみマルセリーノと名づけ、適当な里親を探すが見つからないので、自分たちで育てることにする。

かくしてマルセリーノは五歳になった。院長はじめ十二人の僧侶はみなマルセリーノをかわいがる。マルセリーノは好奇心が旺盛で、さまざまないたずらをしては、僧侶たちを困らせる。これは同年代の友達がいないからだと思った院長は、再び適当な里親を探すがやはり見つからない。そんな折にマルセリーノは一人の美しい女性を見る。その女性にはマルセリーノと同じ年齢の子供がいると聞き、マルセリーノは自分も又その女性の子供になりたいと考える。そこからかれの母親への思慕が高まっていくのである。

ある日マルセリーノは、修道院の二階にある部屋で、キリストの像を見る。はじめは恐れたのだったが、そのうちキリスト像に親愛な気持ちを感じるようになる。キリスト像も又、マルセリーノに話しかけたりする。そんなキリスト像にマルセリーノは台所からパンやワインを盗み、せっせと運んでくる。それをキリストは飲食するのである。

マルセリーノはキリストに向って、自分の母親が恋しいといい、キリストにも母親がいるのかと聞く。キリストは自分の母親もお前の母親も天国にいるのだと答える。それに対してマルセリーノは母親に会いたいと訴える。キリストはその願いに応えて、マルセリーノを天国に連れて行く、といったような内容である。

単純な話であるが、マルセリーノを演じた少年のみずみずしい演技がはえて、非常に情緒豊かな感動を与えてくれる。誰が見ても感動すること請け合いの映画である。教会を舞台にした悪戯という点では、あの「禁じられた遊び」が想起されるが、実際どちらも戦争が背景にあり、また子どもの純真な遊びがテーマである。クレマンの映画では、幼い二人の男女が引き裂かれるところで終わり、したがって悲劇的な雰囲気が強いのだが、こちらは少年の昇天で終わる。昇天といえども死ぬことにかわりはないから、やはり悲劇的というべきなのか、それとも感動的というべきなのか、迷うところでもある。

主題歌として流れる歌は、一時日本でもたいへん流行った。また、タイトルの原題「Marcelino Pan y Vino」は、マルセリーノがキリスト像に運ぶパンとワインを意味している。「汚れなき悪戯」という邦題は、映画の内容からつけたものだろう。






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