レンブラント:バロックの巨人

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レンブラント(正式にはレンブラント・ハルメンソーン・ファン・レイン Rembrandt Harmenszoon van Rijn 1606-1669)はバロック美術を代表する画家である。その活躍ぶりからして、バロックの巨人と呼んでよい。バロック絵画はイタリアの天才カラヴァッジオによって完成され、強い明暗対比(キアロスクーロ)と劇的なモチーフによって特色づけられるが、レンブラントはそうした特徴を更に発展させ、バロック美術を一層深化させたといえる。

レンブラントは1606年にオランダのライデンで生まれた。父親は製粉業を営んでおり、芸術とは無縁だったようだ。息子のレンブラントは頭がよかったらしく、父親はこの息子をわずか14歳のときにライデン大学に入学させた。しかしレンブラントは、学問より絵を描くことを好み、たった半年で大学を中退、地元の画家スワーネンブルフに弟子入りして絵の修行をした。スワーネンブルフは凡庸な画家だった。

1624年、18歳の時にアムステルダムに出て、ピーテル・ラストマンに師事。ラストマンは明暗のメリハリをつけた画風で、レンブラントに大きな影響を与えた。この師を得たことで、レンブラントの才能は大きく花開いたと思われる。

19歳で画家として独り立ちし、ライデンに戻ってアトリエを持つ。22歳で弟子を持つまでになる。ライデン時代の作品には「トビトとアンナ」や「ペテロとパウロ」などがある。また母親をモデルにして「女預言者アンナ」を描いたりしている。聖書からモチーフをとったものが多かった。

1631年、25歳の時に広い活躍の場を求めてアムステルダムに移り住む。翌年、初期の代表作といわれる「トゥルプ博士の解剖学講義」を制作。この作品によってレンブラントの名声は大いに上がった。当時のオランダでは、集団肖像画が流行しており、画家にとってはよい稼ぎをもたらした。

1634年に地元の名士の遺児サスキアと結婚。このサスキアをレンブラントは深く愛し、多くの肖像画を残すことになる。酒場の放蕩息子に扮したレンブラントが、サスキアを膝の上にのせてはしゃいでいる絵は、二人の愛情を物語るものとして、ほほえましい作品である。

サスキアはレンブラントに多大な持参金をもたらし、その金でレンブラントは贅沢をすることができた。レンブラントには金銭感覚がなかったらしく、やがて大きな借財を抱えて苦しむようになる。だがサスキアが生きていた間は、不自由をすることはなかった。二人はアムステルダムの高級住宅地に豪華な屋敷を買い求め、そこで優雅な暮らしをしたものである。

1642年の作品「夜警」は、市民軍の予備役部隊の注文を受けた集団肖像画だが、バロック美術を代表するものとしてレンブラントの名声を決定的なものとした。この絵は、明暗対比を強調するとともに、画面に劇的な動きの要素を持ち込んだものとして、まさにバロック絵画の典型といえる作品である。

「夜警」の完成と前後して、サスキアが30歳の若さで死んだ。死因は結核だったようだ。生まれたばかりのティトゥスとレンブラントに遺産を残した。レンブラントはその遺産を、再婚しない限り使うことができるのだった。

レンブラントは幼いティトゥスのために家政婦をやとった。ヘールヘトという名の家政婦と、レンブラントはすぐに内縁の関係になったが、結婚することはなかった。サスキアの遺言のためである。ヘールヘトはレンブラントを婚約不履行で訴えたりしたが、逆にレンブラントに訴えられて、監獄に入るはめになった。レンブラントには、そういうしたたかな面もあったのである。

ヘールヘトの後に来た家政婦はヘンドリッキエといって、レンブラントより20歳も年下だったが、すぐに内縁関係になった。この女性は気立てがやさしく、内縁関係で満足していた。彼女の肖像画も、レンブラントは多く描いている。

レンブラントの名声は高まったが、注文は減った。というのも、レンブラントは注文主の意向に配慮することがなく、またかなり気ままだったからだ。そうした噂が広まって、レンブラントに注文する人がいなくなったということだ。そんなこともあって、レンブラントの経済状態は非常に悪化し、債権者に悩まされることとなった。その挙句、1656年には、残っていた財産のすべてを、邸宅や自分の作品を含めて、すべて失うはめになった。

そんなことから晩年のレンブラントは、かなり不如意な人生を送ることになった。もっとも不如意だったのは、愛するヘンドリッキエと、これも最愛の息子で最後の頼りともいうべきティトゥスに先立たれたことだ。レンブラントは、ティトゥスの妻と生まれたばかりの孫ともども、取り残されてしまったのである。かれが63歳という比較的若い年齢で死んだのは、人性への失望がもたらしたともいえよう。

だがレンブラントは、死ぬまで絵筆を投げ出さなかった。かれにとっては、描くことが生きることそのものだったのだ。ここではそんなレンブラントの代表的な作品を取りあげ、鑑賞しながら適宜、解説・批評を加えたい。(上の絵は、レンブラント晩年の自画像)





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