闇のカーニバル:山本政志

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山本政志の1982年の作品「闇のカーニバル」は、16ミリの低予算映画である。山本自らカメラを持って撮影した。筋書きらしいものはない。新宿あたりにたむろする若者たちの行動を、ドキュメンタリー風に追ったものだ。若者たちの生きざまは、刹那的で快楽至上主義といったもので、いささかの理智をも感じさせない。低能動物のように、なにも考えずに生きている。こういう人種には、今の日本では居場所がないと思うのだが、この映画が作られた頃の日本は、バブルに踊った時代で、ゆとりというものがあり、このようなゴクツブシどもにも生息する空間があった。そういう意味で、時代を感じさせる映画である。

出演者は、山本と交友があったロックバンドのメンバーとか、映画にはずぶの素人たちが起用されている。それでも映画らしくまとまったのは、映画そのものがドキュメンタリー風で、別に大袈裟な演技を必要としなかったからだ。その中で、演技らしいものをしているのは、主演格の男女で、女のほうは、ロックバンドで下手なボーカルをやっており、男のほうは、彼女のとりあえずの愛人で、どうやらゲイのようらしい。

女は、小さな男の子と暮らしている。その子を、おそらく離婚したもと配偶者に面会の名目で渡した後、自分は自由を謳歌しようとする。映画は、翌日子どもを引き取るまでの、約一日の彼女の行動を中心にして展開するのだ。彼女はまだ若い女だから、無論欲求不満に悩んでいる。そこで交際している男に抱いてもらおうと思うのだが、男には彼女を喜ばせる能力がない。女が相手では、肝心なものが機能しないらしいのだ。そこで自己嫌悪に陥ったらしい男は、別の男に八つ当たりする。通りですれ違った牛乳配達の青年に、理由もなく暴力を振るうのだ。その暴力がいかにも陰惨に映る。

男は、男が相手だと燃えるらしく、新宿の中央公園で、若い男を相手に男色に耽る。新宿の中央公園は、男色のメッカだったらしく、小生もその現場を目撃したことがある。ともあれ、相棒の若い男は、別の中年男にも尻の穴を掘らせるのだが、その中年男にはサドのケがあるようで、若い男の首にネクタイをまきつけながら尻を掘っているうちに、若い男は窒息死してしまう。そこへ別の三人組があらわれて、若い男の死体から金目のものを奪いとったうえ、木の枝に吊るしてしまうのである。なぜそんなことをするのか。死んだ者相手なら、なにをしても気楽だからであろう。

一方、欲求不満の女は、片っ端から電話をかけて、セックスの相手をしてくれる男を求める。しかし、なかなか見つからない。金ならあるのに。というのも彼女は、宝石店でクレジットで買った高級品を質屋に入れて、多額の現金を手にしたばかりなのだ。その現金を持って気の大きくなった彼女は、おそらく新宿二丁目にあるゲイバーに立ち入って、踊り狂いながら鬱憤を発散する。ところがその直後、三人のおかまたちによって袋叩きにされてしまうのだ。本物の女のくせに、ゲイバーに出没して自分たちの商売の邪魔をするなということらしい。叩きのめされた女は、股間から大量の出血をする。どうやら流産したようなのだ。誰の子供かは知れない。

さんざんな目に遭った女だが、子どものことは可愛いらしく、翌日待ち合わせ場所の紀伊国屋書店へ出かけていって、昨日渡した子供を返してもらうのだ。その際の彼女の顔は、母親そのものだ。

このほかに、鴉を捕獲してそれを路上で売る女とか、火葬場から人間の骨を盗む女などが出て来る。鴉は当時の東京で大問題になっていた。また火葬場から骨を盗むということは、東京の火葬場においてはあり得ないことだ。東京の火葬場は、焼いた骨は残らず遺族に渡すからである。

こんなわけで、東京の一角に生息する若者たちを追いかけているわけだが、それを通じて、その時代に吹いていた風が体感できるような具合に作られている。「闇のカーニバル」というのは、大都会の闇の中でうごめく若者たちの乱舞のような行動をさしているのだろう。






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