相対的過剰人口または産業予備軍:資本論を読む

| コメント(0)
資本の蓄積はますます多くの労働者を労働力として吸収するが、しかしそのことで労働力の絶対的不足という事態はおこらないとマルクスは考える。絶対的不足が起る前に、労働への重要が労賃の上昇をもたらし、それが剰余価値の減少につながり、剰余価値の減少が資本の蓄積にストップをかけるからだというのである。資本主義的生産は、つねに過剰な労働力を伴っている。その過剰な労働力が労働の供給圧力として働き、労賃の上昇を妨げ、そのことによって剰余価値の生産を可能にする。この過剰な労働力のことをマルクスは相対的過剰人口と呼ぶ。そして、その相対的過剰人口こそは資本主義的生産に固有の人口法則なのだというのである。

マルクスは言う、「資本主義的蓄積は、しかもその勢力と規模とに比例して、絶えず相対的な、すなわち資本の平均的な増殖欲求にとってよけいな、したがって過剰な、または追加的な労働者人口を生み出す・・・この過剰人口の生産は、すでに就業している労働者をはじき出すという比較的目に立つ形をとることもあれば、追加労働者を通常の排水溝に吸収することが困難になるというあまり人目にはつかないが効果は劣らない形をとることもある」

要するに、相対的過剰人口は資本主義的蓄積の必然的な産物だとマルクスは言うのである。それのみではない、それは資本主義的生産様式の存在条件でもある。「それは自由に利用されうる産業予備軍を形成するのであって、この予備軍は、まるで資本が自分の費用で育て上げたものででもあるかのように、絶対的に資本に従属しているのである」。この産業予備軍があるおかげで、資本は景気の上昇局面や、季節的な労働需要の変化に応じて、弾力的に労働力を利用することができる。「人間の大群が、突発的に、しかも他の部門で生産を害することなしに、決定的な点に投入できるようになっていなければならない。過剰人口はそれを供給するのである」

過剰人口といい、産業予備軍といい、それは労働者の一部を常に失業させていることを意味するから、資本主義のシステムにとっては、労働者の一定部分の失業は、不可欠の条件となっているわけである。資本主義には、完全雇用ということは、持続的な発展を目的とする限りは、ありえないということになる。現実もそのとおりに動いてきた。どの好況の時代にあっても、失業率が文字通りにゼロになることはなかった。失業率が4パーセント程度でも完全雇用に近いといわれたものである。

「労賃の一般的な運動は、ただ、産業循環の局面変転に対応する産業予備軍の膨張・収縮によって規制されているだけである。だから、それは、労働者人口の絶対数の運動によって規定されているのではなく、労働者階級が現役軍と予備軍に別れる割合の変動によって、規定されているのである」。予備軍の割合が大きければ、労働者間の競争圧力が働いて労賃は下落し、その逆の場合は上昇するというわけである。

このことから、俗流経済学は皮相な結論を導き出したとマルクスは批判する。俗流経済学は、資本の運動が人口の絶対的な運動に依存するのだとする。これはおそらくマルサスを念頭においているのであろう。その理屈は次のようである。「労賃の上昇は労働者人口の加速的増加に拍車をかけ、この増加が続いて、ついに労働市場が供給過剰になり、したがって資本は労働者供給に対して相対的に不足になる。そこで労賃は下がり、今度はメダルの裏側が現われる。労賃の低下によって労働者人口は段々減っていき、そのために労働者人口に比べて資本は再び過剰になる。あるいはまた、他の人びとが説明するところでは、労賃の低下と、それに対応する労働者の搾取の増大とは、再び蓄積を速くするのであるが、同時に他方では、低くなった労賃が労働者階級の増大を妨げる。そこでまた、労働供給が労働需要より少なくなり賃金があがるという状態が現われ、更に同じことが繰り替えされる。発展した資本主義的生産にとってなんとも見事な運動方法ではないか!」

実際には、労働の絶対量が資本の規模を規定するのではなく、資本の規模が労働の需給を規定するのである。すなわち、「労働の需要供給が資本の膨張・収縮によって、つまり資本のそのつどの増殖欲求に従って規制されていて、そのために、ある時は資本が膨張するので労働市場が相対的に供給過小になって現われ、ある時は資本が収縮するので労働市場が再び供給過剰になる」のである。

相対的過剰人口の一部は極貧層に陥り、その一部はさらに受給貧民となる。今の日本でいえば生活保護世帯ということになるが、マルクスの時代のイギリスにはそんな公的制度はなく、教会による救済制度が最下層の貧民を面倒みていた。「この貧民は資本主義的生産の空費に属するが、しかし、資本はこの空費の大部分を自分の肩から労働者階級や下層階級の肩に転嫁することを心得ているのである」。これは今日の日本の生活保護制度が、国民が等しく負担する税金によってまかなわれているのと同じ構図である。

産業予備軍の流動的な形の一例としてマルクスは、作業隊というものをあげている。作業隊とは、移動労働者の一種で、農業分野において流行したものである。親方のもとに一定数の労働者が集まって作業隊というものを形成する。作業隊の親方は、さまざまな農業経営者から、一時的な仕事を請け負う。農業経営者にとっては、「自分の手元におく労働人員を正常な水準よりずっと少なくしておきながら、しかもどんな臨時の仕事のためにもつねに臨時の人手を準備」できる便利な制度であった。一方作業隊の労働者にとっても、仕事にあぶれる恐れが少なくなるという点で利点があると言われた。要するに、資本にとっても、労働にとっても、ウィンウィンの関係をもたらしてくれるというわけである。

この作業隊に典型的に見られる移動労働者の末裔を、現代の日本でも見ることができる。派遣労働者と呼ばれるものである。派遣労働者は、資本の都合にあわせて柔軟に労働を供給できる制度として、資本にとって都合がよいばかりでなく、労働者にとっても、自分のその時々の気分に合わせて好きな働き方ができると言われている。実際には、資本が労働をもっとも安く、しかも余計な気を使わないでもすむ、便利な制度なのである。マルクスは作業隊について、「できりだけわずかな貨幣でできるだけ多くの労働を取り出し、成年男子労働者を『過剰』にするためには、この制度以上に気の利いた方法はない」と言っているが、まったく同じことが現代日本の派遣労働者にあてはまる。かれらは好況の時には資本の労働需要に柔軟に応じ、不況の時にはいち早くクビを斬られるのである。






コメントする

アーカイブ