法華経を読むその二:方便品

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法華経のうち最初に成立し、しかも中核部分ともいうべき「方便品第二」から「授学無学人記品第九」までの八章のうちで、「方便品第二」は、この中核部分の総論にあたるものである。法華経の中でも最もポピュラーな章であり、日蓮宗の寺では、法要の席上かならず読まされる。

方便品のいわんとするところをごく単純化して言うと、法華経の功徳というか、その意義である。法華経は仏の悟りの内容を伝えたものであり、仏のすでに存在しない末世においても、仏の教えを知ることができるよすがである。我々が法華経に出会えるのは、優曇華の花を見るように稀有なことであるから、その稀有な機会を逸さずに法華経を念じれば、どんな衆生も成仏することができる。そう方便品は教えさとすのである。

方便というのは、相手の能力に応じた話し方をすることである。衆生にはさまざまな能力を持った人がある。高い能力を持ち、ひと言で意味がわかるものもいれば、そうでない者もいる。それら能力の異なった者たちに対して、その能力に応じた語り方をすることを方便と言うわけである。したがって方便品を読めば、どんな能力の者でも、仏の教えがわかるようになっている。

ここで、法華経への批判について簡単に触れておきたい。法華経への批判は、日本では国学者を中心に行われてきたが、その趣旨は、法華経はお経のありがたさをあげつらうだけで、そのお経が説いている教えの内容が明らかにされていない。つまり、法華経は無内容なお経だというのである。法華経の徒は、法華経に帰依し、南無妙法蓮華経と唱えれば成仏できるというが、肝心な帰依すべきお経の内容が空っぽなのだから、群盲象をなでるに異ならないというわけである。

しかしこれは法華経を正しく読んでいない者の言う中傷だと、法華経に帰依する人々は反論する。法華経には、仏教の教えが詰め込まれており、それを読めば、仏教的な世界観とか成仏に向けての実践的な姿勢とかが養われると言うのである。法華経の教えのうち、世界観にかかわるものと一乗妙法といい、成仏へ向けて実践を促進するものを六波羅蜜という。この両者をバランスよく修業することで、人は誰でも成仏できるのである。法華経には、二乗作仏という思想があって、菩薩が成仏できるのは無論、声聞や独覚など小乗(二乗)の徒も成仏できるとする考えがある。すなわち大乗の成仏思想である。

そこで、方便品の内容に入りたい。方便品は、釈迦仏が高弟の舎利弗を相手に語り掛けながら展開していく。仏はまず、自分が会得した世界の真実について語る。これは諸法実相と呼ばれ、後に一乗妙法と呼ばれるものだが、その内実は、すべての存在を十のカテゴリーに分類するというものである。そのカテゴリーは、如是相以下すべて如是という文字を冠しているので、十如是という。具体的には、如是相、如是性、如是体、如是力、如是作、如是因、如是縁、如是果、如是報、如是本末究竟等、である。これをもとに、天台思想は世界についての統一的説明原理(一念三千)を作り上げたわけである。

ところが釈迦仏は、自分の会得した思想は、声聞や独覚などには到底理解できないだろうから、かれらにそれを語っても無駄だと言い出す。それに対して舎利弗は、みな聞きたがっているのですから是非教えて下さいと懇願する。釈迦はそれでも首を縦に振らないでいたが、舎利弗の余りの熱意に負けて、問い聞かせる気持ちになる。ところが今度は、数千の声聞・独覚たちが席を蹴って立ち去ってしまう。釈迦仏のもったいぶった態度に怒ったのである。釈迦仏は、そんなかれらを気にせず、舎利弗以下その場に残った者たちを相手に説法を始めるのである。

釈迦仏は宣言する。如来はただ、一仏乗をもっての故に、衆生のために法を説く、と。一仏乗というのは、すべての衆生を成仏させる教えという意味である。如来は菩薩のみならず声聞・独覚さえも成仏させることを目指す。だが仏の教えを素直に学べるのは菩薩のみである。そこで仏は、声聞・独覚を相手に説法するときには方便力を活用せざるをえない。釈迦仏は悟りを得た後で、初めて弟子たちに説法をしたが、それは相手の能力を考慮したやり方で、まさに方便力を活用したものだった。その初めての説法を初転法輪という。転法輪とは、仏の教えを説くことである。

衆生の教えがたきを釈迦仏は次のように言う。「若しわれ、衆生に逢いて悉く教うるに仏道をもってせば、無知の者は錯乱し、迷惑して教えを受けざらん。われはこの衆生の、未だかつて善本を修めざるを知る。堅く五欲に著して、癡・愛の故に悩みを生じ、諸々の欲の因縁をもって、三悪道に堕落し、六趣に輪廻して、備さに苦毒を受け、受胎の微形は、世々に増上し、薄徳少福の人として、衆苦に逼迫せられ、邪見の稠林により、若しくは有、若しくは無、等に入り、この諸々の見に静止して、六十二を具足す」

ここで釈迦仏が言っていることの要点は、衆生はストレートに真理を語っても受け入れることができず、したがって方便をもって説くべきだということである。そのことを釈迦仏は繰り返して言う。「われに方便力ありて、三乗の法を開示す。一切の諸々の大衆は、皆、応に疑惑をのぞくべし。諸仏の語は異なることなし、唯一にして二乗なし」と。つまり、方便によってさまざまな語り方はあるが、その語られている内容には異なるところはないということである。

次いで釈迦仏は、衆生が成仏できる条件を列挙する。それを一言で言えば六波羅蜜である。六波羅蜜とは、布施、持戒、忍辱、精進、禅定、智慧のことであるが、それらを実践することで成仏することができる。釈迦仏は言う、「若し衆生の類ありて、諸々の過去の仏に値いたてまつりて、若しくは法を聞いて布施し、或は持戒・忍辱・精進・禅・智慧等をもって、種々に福徳を修せる、かくの如き諸々の人等は、皆、すでに仏道を成じたり。諸仏、滅度し已わりて、若し人に善軟の心あらば、かくの如き諸々の衆生は、皆、すでに仏道を成じたり」

また、土を積んで仏廟を作ったり、砂を集めて仏塔を建てたり、七宝で仏像を飾ったり、音楽をもって仏をたたえたり、絵に仏の姿を描いて礼賛したり、合掌して仏のために供養したりと、そういうことに励めば、おのずから成仏できるとも言う。この釈迦仏の言葉を拡大解釈すれば、法華経を念誦すれば成仏できるということになる。実際方便品は、南無仏ととなえるだけで成仏できると説くのである。






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