資本の回転期間が経営に及ぼす影響:資本論を読む

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資本の回転という概念をマルクスは、当初生産資本の回転について論じていた。生産資本を含めた資本の総循環については、資本の循環という言葉を用いていた。要するに、貨幣による資本の調達、それの生産への投入、生産された商品の流通からなる全体を資本の循環と言い、その中の生産資本にかかわる部分を取り出して、資本の回転を論じたのであった。論じる対象は固定資本と流動資本である。この両者では回転期間が異なる。そのことによってどのような問題が生じるか。それを解明するのが「資本の回転」という概念の役目だったわけである。

ところがマルクスは、資本の循環に相当するプロセスを、資本の回転と呼ぶようになる。それについての説明はなく、いきなりである。そのことで、言葉をめぐる混乱が起きるかといえば、そうでもない。その理由をよくよく考えると、次のような事情のためだと思いあたる。資本の循環という概念は、資本主義的生産の特徴を巨視的視点から捉えた概念である。一方、資本の回転という言葉は、どちらかというと、資本家個人の微視的な立場に立った概念である。その意味では、経営上の都合にかかわるものだ。というのも、この概念を用いてマルクスが論じるのは、資本の回転期間の相違が、前貸し資本の額やその充当にどのような影響を及ぼすかというようなものであって、極めてテクニカルなものである。前稿でも述べたとおり、マルクスには資本家の視点に立ったテクニカルな議論に耽る傾向がある。

ともあれ、同じ言葉を使っていても、それが資本主義的生産をめぐる巨視的な議論での場合と、資本家個人の視点に立った微視的な議論の場合でとは、趣旨が違ってくる。一方は、経済学的な議論であり、他方は経営学的な議論である。

そこで、資本の回転という概念であるが、資本家個人にとっては、資本の回転は資本の循環と異なったものではなく、生産期間と流通機関からなっている。生産期間には、労働期間が含まれる。生産と労働を分ける意味は、生産期間にはかならずしも人間の労働が介在しない期間も含まれているからである。たとえば、ワインの熟成のための期間のようなものだ。

資本家個人の視点に立てば、かれの当面の目的は、商品を生産し、それを売ることで貨幣を得ることである。マルクスは、生産のための期間を労働期間と呼び、商品を売るために要する期間を流通機関と呼んで、それのさまざまな組み合わせから、どのような結果が生じるかを論じている。例えば、労働期間と流通期間が完全に分離されていて、労働期間が終わったあとに流通機関が続き、流通の結果還流してきた貨幣をもとにあらたな生産が始まるような場合には、労働期間と流通機関をあわせた回転の総期間のために、前貸し資本を用意しなければならない。それに対して、流通期間の間も生産を中止せずに、連続した労働をさせるためには、それに相応した追加資本を用意しなければならない。しかしいずれは実現される剰余価値が、必要な前貸し資本の原資になるので、資本家が用意すべき前貸し資本は自分自身の手で調達できるようになる。

簡単に言えばこれだけのことを、マルクスは様々なケースを想定しながら、微細な議論で明かしていくのである。そこにはマルクス一流のマニアックな面が現われていて、いささか辟易させられるというような趣旨のことをエンゲルスは述べている。その説明をマルクスは、図や数式を駆使して展開するのだが、どうもマルクスは数学には強くなかったらしく、その議論の仕方はあまりスマートなものではないともエンゲルスは述べている。

資本の回転についての議論からマルクスが引き出す結論は、資本の回転期間が短ければ短いほど、用意すべき前貸し資本の額は小さくなり、また、剰余価値の年率は大きくなるということである。剰余価値の年率というのは、一年の間に実際に投下された資本に対する剰余価値の比率のことだが、これは資本の回転が短ければ短いほど大きくなるのである。剰余価値の年率は一年に得られる剰余価値/投下された前貸し資本の額、という式になるので、一年に一回しか前貸しされず、したがって、前貸し資本額が巨額になるような場合には、剰余価値の年率は小さくなり、その逆の場合には逆の結果になるのである。資本の回転が速ければ、当然実際に必要となる前貸し資本の額も小さくなるので、剰余価値の年率は大きくなるのである。

このことは、資本主義的生産様式のもとでは、資本は回転の速い領域には多く流れていくが、回転の遅い領域には流れにくくなるということを意味している。回転の遅い領域では、一人の手に余るような巨額な前貸し資本が求められる場合が多いし、また、剰余価値の年率も小さくなる。そのような領域は、今日巨大インフラと呼ばれるものにあたるが、そういう事業については、個別資本による事業ではなく、公共事業という形で公的部分が担うのが当然のこととなっている。だがマルクスの時代にはそうではなく、インフラも私的資本が担う場合が多かった。そこにマルクスは資本主義の限界の一つの要素を認めたのであった。

マルクスは資本主義の限界を、私的資本家による無計画的でいきあたりばったりな行動様式に求めた。そういう傾向のもとでは、社会の資源は有効に使われず、インフラのように社会全体として必要でありながら、なかなか投資されない分野も出て来る。それを克服するためには、もっと計画的な社会運営が必要だが、それを保証するのは共産主義しかないとマルクスは考えるのである。つまりマルクスは共産主義を、資本主義の限界を乗りこえるためのカウンター概念として提出しているわけである。その共産主義のあり方をマルクスは、とりあえず次のように描写する。

「資本主義のではなく共産主義の社会を考えてみれば、まず第一に貨幣資本は全然なくなり、したがって貨幣資本によって入ってくる取引の仮装もなくなる。事柄は簡単に次のことに帰する。すなわち、社会は、たとえば鉄道建設のように一年またはそれ以上の長期間にわたって生活手段もそのほかどんな有用効果も供給しないのに年間生産物から労働や生産手段や生活手段を引き上げる事業部門に、どれだけの労働や生産手段や生活手段をなんの障害もなしに振り向けることができるかを、前もって計算しなければならないということである。これに反して、社会的理性が事後になってはじめて発現するのを常とする資本主義社会では、絶えず大きな攪乱が生じうるのであり、また生ぜざるをえないのである」






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