国際収支と為替相場:資本論を読む

| コメント(0)
資本論第三部第35章「貴金属と為替相場」は、国際収支と為替相場の関係について主に分析している。そこに貴金属が重要なファクターとして入って来るのは、当時の貨幣が貴金属と深く結び付いていたという事情のほか、国際貿易上の決済が、基本的に貴金属によってなされたという事情を踏まえている。貿易が入超になれば貴金属が流出し、したがって貨幣量も減少する。逆に出超になれば、逆の結果が起きる。当時のイギリスでは、中央銀行の貨幣発行額は金準備と連動していたからだ。ほかの先進資本主義国も、ほぼ同様な事情にあった。

国際収支をマルクスは、当面二国間関係をモデルにして分析している。多国間の国際収支は、二国間の収支の集合したものと認識していた。たとえば、イギリスとドイツの間の貿易収支を取りあげてみよう。イギリスへのドイツからの輸入が増えて、イギリスからドイツへの輸出を上回れば、イギリスからドイツへの金の流出が起きる。これは、二つの効果をもたらす。まず、マルクに対してのポンドの価値下落が起きる。マルクへの需要のほうが、ポンドのそれより高くなるからだ。これは国際収支が為替相場にもたらす影響ということができる。ともあれこれを多国間収支に拡大すると、赤字国の為替相場は下落するということを指摘できる。

金流出入のもうひとつの効果は、貨幣量の変動である。貿易収支が黒字になって金の流入がおきれば、貨幣量は増大する。逆に貿易が赤字になって金が流出すれば、貨幣量は減少する。というのは、当時のイギリスでは、中央銀行の貨幣発行額は、金準備と強く結び付いており、金準備額の増減に応じて、貨幣発行高も増減していたからである。これは金と貨幣が連動することによる効果であり、兌換制度が廃止されたあとは、かならずしも当てはまらない。不換制度のもとでは、金準備高に関係なく貨幣を発行できるからだ。しかし無暗に発行できるというわけではない。あくまでも市場の取引量に対応する範囲での発行が求められる。

貨幣量の増減は、利子率に一定の影響を与えるとマルクスは見ている。利子率は基本的には貨幣への需給を反映しており、したがって、貨幣が減少して逼迫するようになれば、利子率も上昇せざるを得ない。逆に貨幣があふれるようになれば、利子率は低下する。貿易収支を通じての為替相場の変動と貨幣量の増減は、金の流出入を媒介として結びついているのであるが、しかし、貨幣量の増減と利子率の変動とがある程度関連しているのに対して、為替相場と利子率とは必ずしも結びついていないとマルクスは言う。「為替相場が変動しても利子率は不変でありうるし、また利子率が変動しても為替相場は不変でありうる」と言うのである。

貨幣量の増減と利子率との関係について、マルクスは重要な指摘をしている。輸入超過になって、イギリス国内での貨幣量が減少すれば、貨幣の需給が逼迫する。その逼迫をゆるめるために、利子率の引き上げが意図的に行われる。じっさいには、貨幣の減少そのものが利子率上昇の方向に働くのであるが、それを人為的に拡大するのである。そうすることによって、貨幣(金)への需要が抑制され、それが結果的に輸入の減少につながるのである。この場合には、貨幣量と利子率との間の自然的な関係を人為的に活用して、貨幣量とか貿易収支をコントロールしようというわけである。

一方、為替の変動を貿易収支のコントロールに利用することは、いまでも重要な経済政策として、認められているところである。これをマルクスは正面から取りあげてはいないが、その意義については十分認識していたと思われる。為替の変動は、ある程度自然現象に近い動きをするものであり、輸入が超過すれば当該国の貨幣価値は低下し、輸出が超過すればその逆の動きがあらわれることを指摘できる。これを逆手に取って、意図的に為替を操作することで、貿易に影響を与えることができる。為替が安くなれば輸出には有利になるので、輸出を伸ばしたいと考える政策立案者は、為替水準を安めに誘導するわけである。

以上の議論を踏まえながらマルクスは、外国為替相場の変動をもたらす要因として三つのものをあげている。①当面の国際収支、②一国の貨幣の減価、つまり通貨切り下げ、③二つの国の一つが金本位をとり、ほかの一つの国が銀本位をとっている場合には、金銀の間の価値の比率の変動によって為替相場も変動する。このうち、いまでも重要性をもっているのは、①当面の国際収支である。国際収支の変動が為替相場の変動をもたらし。為替相場の操作が外国貿易の増減を通じて国際収支に影響を与えるという、入れ子状の関係にあるわけである。

以上の議論は、金本位制を前提にしたものである。いまの世界経済は、金本位制から解放されている。したがって、二国間の貿易は、金を媒介させることなく、直接通貨で決済される。だがどの通貨もその決済手段になりうると言うわけではない。ある特殊な、安定した通貨が決済手段として使われる。金兌換制度が廃止された1970年代以降いままでの世界経済においては、ドルがその役割を果たしてきた。ドルが、その堅固で巨大な信用力をもって、金のかわりをつとめてきたのである。そんなことが可能であったのは、アメリカの経済力が巨大であったからだが、それと同時に、アメリカが自国の国際収支のバランスにあまり神経質にならず、世界市場の要求に応じて、弾力的にドルを発行してしたことにもよる。場合によってはアメリカはドルを垂れ流し、世界に対する赤字を前提にして、自国の繁栄を追及できたのである。

もしもアメリカの経済的な地盤が崩壊し、ドルが世界通貨としての役割を果たせなくなったら、あるいは金本位制のようなものが復活するかもしれない。なんといっても金は、一般的かつ普遍的な等価形態として、盤石な基盤を持っているのである。マルクスは、金を富の究極的な担い手とする考えを重金主義と名づけ、これに対して信用制度の役割を重視する考えを信用主義と呼んで、両者の関係を、つぎのように皮肉を込めて言い表している。

「重金主義は本質的にカトリック的であり、信用主義は本質的にプロテスタント的である。紙幣としては、諸商品の貨幣定在は一つの単に社会的な定在をもっている。救済するものは信仰である。商品の内在的精霊としての貨幣価値に対する信仰、生産様式とその予定秩序とに対する信仰、自分自身を価値増殖する資本の単なる人格化としての個々の生産当事者に対する信仰。しかし、プロテスタント教がカトリック教の基礎から解放されないように、信用主義も重金主義の基礎から解放されないのである」







コメントする

アーカイブ