差額地代:資本論を読む

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差額地代をめぐるマルクスの議論は、リカードの地代論を踏まえたものだ。リカードの地代論の特徴は、地代の発生を土地の豊度の差に求めるというものだ。どういうことかというと、豊度の高い土地は、低い土地よりも当然多くの収穫をもたらす。その収穫の超過分が地代に転化するという考えである。その場合、すべての土地の基準となる土地が選ばれ、それとの対比によって地代の発生が説明される。基準となる土地は、すべての土地に対してゼロポイントとなるから、それ自体は地代を生じないというふうに仮定される。マルクスとしては、地代を伴なわない借地などはありえないから、リカードの仮定は現実味に欠けると批判するのであるが、当面はその批判を脇へ置いて、差額地代が、土地相互の収益量の相違から生まれるといふうに議論を展開するのである。

マルクスの差額地代論は、二つのケースにわけて論じられる。一つは、並行して存在する様々な土地について、その豊度の差が地代を生むという議論。もう一つは、同一の土地に対して追加的に投資されることによる豊度の変化が、地代にどのような影響を及ぼすかという議論である。この二つのうち、基本となるのは前者のケースである。後者は前者の応用問題的な位置づけだといってよい。

さまざまな土地を相互に比較する場合、比較の基準となる土地、基準地、が必要になる。その他の総ての土地は、基準地との比較において論じられる。マルクスは、とりあえず議論をわかりやすくするために、その基準地を、リカード同様、地代を生まない土地と仮定する。ということは、すべての土地の中で、もっとも豊度の低い土地ということになる。そのような土地がなぜ基準地となりうるのか、その理由をマルクスはあまり立ち入って説明していないが、そこはリカードの仮定をそのまま採用し、資本主義的な農業生産にあっては、農産物の価格は、もっとも豊度の低い土地からの生産物、ということはもっとも生産費用の高い農産物の価格に決められるというふうに考えているわけである。

工業生産物の場合には、一般的生産価格は、すべての個別的生産者の生産費用を平均化したものに収斂するのであるが、農業生産物の場合には、最も高い生産費用が価格を決定する。そうなる理由は、農業生産物の価格が一種の独占価格であって、それは農業生産物、とりわけ穀物などの人間の生存に不可欠なものにつきまとう性格からきている、とマルクスは考えているようである。ともあれ、最も高い生産物が農産物の基準価格になれば、それを生み出す土地を基準にして、それとの対比で土地の豊度を相互に比較することで、地代が具体的に決まるわけである。地代とは、土地のもたらす超過収益が、土地所有者の取り分になる部分なのである。

ともあれ、土地の豊度の違いから生まれる超過収益が、差額地代の源泉である。差額地代をめぐってマルクスがとりわけ重視するのは、超過収益のすべてが地代という形で土地所有者のポケットに入るということである。契約のパターンによっては、借地農業者の努力によって生じた生産物の増加が、かれの懐に入るという場合もないわけではないが、それは一時的なことであって、土地の豊度にもとづく収益の超過分は、地代という形で土地所有者のものになるのである。

マルクスは、水力の利用を可能にする落流を伴なう土地について、水力の利用によって得られる超過収益が、そのまま地代として土地所有者のものになる事態を指摘して、次のように言っている。「土地所有は、この超過利潤の創造の原因ではなく、それが地代という形態に転化することの原因なのであり、したがって利潤または商品価格のこの部分が土地所有者または落流所有者によって取得されることの原因なのである」

土地所有者と借地農業者との間のこうした一方的な、あるいは不平等な関係は、両者の間の力関係を反映している、とマルクスは見ている。マルクスが資本論を書いていた時代までは、イギリスの議会とくに下院は、土地所有者の牙城になっていた。すべての法律は、まず土地所有者の利害を考慮して作られ、借地農業者の利益はあまり強くは実現しなかった。それでも借地農業者が経営を投げ出さなかったのは、農業経営からあがる利潤が、工業部面のそれと比較して遜色なかったためだろう。農業部面においても、その総収益は、生産費用プラス利潤であり、それに豊度の高い土地については、差額地代相当分が加わる。この場合の利潤にあたるものが、工業部面における利潤と遜色ないものに設定されていれば、借地農業者にとって経営への意思を持続させる要因になりうるのである。

基準値は、もっとも豊度の低い土地に設定されるが、それはつねに流動している。耕地の水平的拡大とか、新たな資本投下による生産力の向上といった事態が、たえず基準地の設定を変化させる。そのたびごとに、差額地代の設定に変化が起きる。需要が変わらないという事情のもとで、土地の拡大が行われた場合、あるいは土壌改良などによって豊度に変化が生じた場合などは、基準地がかわることがありうる。今まで基準地だった土地の生産価格より安く生産できる土地がはいってきた場合、その土地がそれまでの基準地にとってかわる。なぜなら、需要が変わらないという前提のもとでは、それまで基準地だった土地は、競争に敗れて脱落せざるを得ないからだ。

ともあれ、差額地代がすべて土地所有者のものになるという事態は、借地農業者の経営意欲に一定の影響を与えざるをえない。もし資本を投下して土地の生産力をあげたとしても、それによって生じる超過収益をすべて土地所有者に横取りされるのであれば、借地農業者は、自腹をきって投資する気持ちにはならないだろう。このことは、土地所有のあり方が、農業の発展にとって足かせになることを意味している。それを踏まえたうえでマルクスは、土地所有者の貪欲さを強く非難するのである。それは道義的に問題があるだけでなく、農業の健全な発展にとっても害をもたらすと考えるのである。

マルクスが最も我慢ならないのは、土地そのものは労働の産物ではなく、したがって何らの価値も有さないにかかわらず、その所有が、地代という形で利益をもたらすという事態だ。資本主義社会においては、利子生活者も又、なんらの労を要せずして利益をむさぼっているのだが、かれらはかれらなりにリスクを負うこともある。ところが土地所有者は、何のリスクを負うこともなく、単に偶然土地を所有していたということによって、法外の利益を手に入れている、そう言ってマルクスは、できたらそういうシステムは破壊した方がよいと考えるのである。






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