超過利潤の地代への転化:マルクスの地代論

| コメント(0)
マルクスの地代論は、リカードの説を発展させたものだ。リカードの地代論は、マルクスのいう差額時代に限定しているが、マルクスはそれに加えて絶対地代の概念を導入する。絶対地代というのは、土地そのものが所有者に利潤をもたらすことを意味している。リカードの理論によれば、基準となる土地は地代を生まないのだが、資本主義的生産システムにおいては、地代を生まない土地、すなわちただで貸されるような土地はありえない。そんなことを土地所有者がするはずがないからだ。そうマルクスは言って、資本主義的生産システムにおける地代のあり方を、徹底的に議論するのである。

資本論における地代論のウェイトはかなり高い。原著のページ数もほぼ200ページにのぼる。そこでマルクスはマニアックなほど詳細な議論を展開しているのだが、マルクスがそこまで地代にこだわる理由はなにか。地代は主に、農業生産用の土地をめぐって成立する。この伝統的な生産部面に資本主義的生産様式が適用されるとどうなるのか。それが一つの問題意識としてある。もう一つは、農業という人間の生存にかかわる基礎的な部面においては、通常の資本の論理を超えた事態が生まれる。絶対地代はその典型である。つまり農業分野においては、一方では資本の論理がはたらき、他方では資本の論理を超えた事態が現われるといった具合に、かなり特殊な動きを見ることができる。そうマルクスは考えて、地代に象徴化された資本主義的農業の特質のようなものを、指摘したかったのではないか。

マルクスはまず、資本主義的農業が成立するための条件から、議論を始める。資本主義的生産は、工業分野において典型的な形態をとるが、そこでの基本的な条件は、労働者の生産手段からの排除と、資本への従属ということである。資本は労働者の労働力に対する自由な処分権を駆使して、剰余労働を絞り出し、それをもとに利潤のもととなる剰余価値を自分のものにする。資本主義とは、金が利潤を生むというシステムであり、その利潤の源泉は労働者の剰余労働なのである。言い換えれば、労働者の生み出す剰余価値の上に資本主義的生産関係は成り立っているのである。

この関係は、農業部面でも基本的にかわらない。農業部面においては、労働者の生産手段からの排除は、農民の生産用地からの排除、言い換えれば農民からの土地の収奪と、かれの農業資本への従属という形をとる。前資本主義社会では、農民は自分の所有する土地を耕し、そこから得た収益を(理想的な形では)自分で処分していたわけだが、資本主義的農業においては、農耕者は基本的に、土地の所有者ではなく、農業資本家に雇われた労働者である。その労働者が生み出す剰余価値が、農業分野における利潤の源泉である。その利潤の一部または全部が、地代に転化する。地代は土地所有者のものとなるのだが、資本主義的生産様式においては、土地所有者が絶大な役割を演じるのである。

工業部面において、農業部面における土地所有者に対応する者は、資本の貸し手であり、それが借り手たる産業資本家のあげた利潤の一部を利子という形で受け取るのであるが、農業部面では、土地所有者が土地を農業経営者に貸し出し、農業経営者があげた利潤の一部を地代という形で受け取る。工業部面における利潤の分配は、そこそこ産業資本家に有利なように設定されるが、農業分野における地代の設定は、土地所有者に圧倒的に有利である。土地所有者は、マルクスが差額時代と呼ぶもののほとんどすべてを収奪するばかりではない、本来何らの価値を持たない土地についても、絶対地代という形で利潤をせしめる。資本主義的農業においては、土地所有者は、いわばやらずぶったくりの形で利潤をむさぼるのである。それは不労所得と言ってよい。そんなふうにマルクスは考え、土地所有者の強欲ぶりを批判するとともに、その歴史的な意義と制約とを問題にするのである。

以上のようなことが成立するのは、資本主義的農業においては、土地所有者と農業経営者とが一致していないことに基づく。工業の場合には、経営者が自己資本で操業するというケースもけっこうあるが、農業においては、そういうケースは例外で、土地所有者と農業経営者は別人格である。この二つの人格の間で、土地からあがった利潤が分配されるのだが、地代というかたちをとる土地所有者の分け前は、社会全体の一般的利潤と比較してかなり高い水準となる。それは農業のもつ特殊性にもとづく、というのがマルクスの基本的な考えである。

土地所有者が土地を売る場合、その価格つまり地価は、地代にもとづいて計算されるのが普通である。地代を資本還元したものが地価となる。これは今日の不動産業において、とくに商業地について、収益還元法が広く用いられていることに通じる。収益還元法というのは、その土地が生み出す年間収益をもとに、それを利子率で逆算したものを言う。利子率が5パーセントとすれば、100ポンドの収益をあげる土地の値段は、2000ポンドになるわけである。これは一見合理的に見えて、じつはそうではないとマルクスは言う。「地代(による土地)の売買から地代の存在の正当性を導き出すことは、要するに、地代の存在を地代の存在によって正当化することである」と言うのである。

地代の本体は、基本的には農業労働者の剰余労働である。場合によっては、労働者の必要労働部分にまで地代が食い込むこともある。「本来の労働者の労賃がその正常な価格よりも低く押し下げられ、したがって労賃の一部が労働者から取りあげられて土地所有者の手に流れ込む」ということをマルクスは指摘している。そういう事情にあっては、地代と労賃とは対立関係にある。そこで労賃を上げろという圧力がかかるたびに、「借地農業者は悲鳴をあげて、労賃を他の産業部面で通用するような正常な水準に引きあげることは、それと同時に地代が引き下げられるのでないかぎり、不可能なことであって、それは自分たちを破滅させるにちがいないと叫ぶ」と言うのである。

このようにマルクスは、地代の本体を農業労働者の、一部はその必要労働部分にまで食い込むような貪欲な労働の搾取にあると見ることにおいて、農業における利潤も、工業におけると同様な、資本の論理によって動かされていると見るのであるが、しかし農業部面においては、土地所有者の取り分があまりにも大きいために、労働者の過酷な搾取とか、農業生産物価格の異常な高騰をもたらすと見る。農業生産物の価格には、独占価格に近いようなところがあるとマルクスは考えるのである。

以上マルクスの議論は、農業部面にも資本の論理が支配している事態を想定している。これはおそらく同時代のイギリスの観察から生まれたアイデアと思うのだが、今日においてさえ、資本主義的農業が支配的となっている国は少ない。たとえば日本においては、農業生産者の大部分は、自分の所有する小規模な農地を耕す自営農民である。そういう農民が主体の農業においては、マルクスが分析したような農業生産の性格とか地代の形成といった事態は、あまりはっきりとは見られない。






コメントする

アーカイブ