辛亥革命:近現代の日中関係

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辛亥革命は、孫文の指導のもとに計画的になされたという印象が強いが、実際には偶然によるところが多く、また強力な指導者がいたわけではない。孫文自身、辛亥革命が勃発した1911年10月10日にはアメリカのデンバーにいて、募金活動に従事していたのである、かれが革命勃発の報を聞いたのはアメリカの新聞を通じてであり、上海に戻ったのは12月下旬のことだった。

辛亥革命の発火点となったのは武昌での蜂起だった。しかしこれは綿密な計画にもとづいてではなく、偶然の事件がきっかけで起きた。1911年10月9日に、漢口のロシア租界で爆発事件がおき、それがもとで反乱グループの存在が明らかになった。反乱グループは翌日清国当局に攻撃を仕掛け、それが大規模な蜂起につながった。当時中国南部の各省では、排満団体が結成されていたが、それらが武昌に続いて次々と蜂起した。11月下旬までには17の省で排満勢力が主導権を握り、清国からの独立を宣言した。

かくして独立派は11月29日に南京で集会を開き、帰国したばかりの孫文を臨時大総統に選出した。しかし彼らに革命後の国家像について明確なイメージがあったわけではない。また、この動きに加わったのは中国南部の17省であり、北部の諸省はあいかわらず清国を支持していた。その清国では、隠居していた袁世凱を職務に復帰させ、革命勢力の弾圧に当たらせようとした。西洋列強は、当面は革命の動向を静観する態度をとり、革命勢力を承認することはしなかった。日本についていえば、革命の影響が日本に及ぶのを恐れて、当初は清朝支持に傾いた。

こうして革命勃発後、国家の将来像をめぐって、孫文と袁世凱とが対峙しあうという構図が生まれる。最初にイニシャティヴをとったのは孫文だった。孫文は、1912年1月1日に南京で開催された革命派の集会において、中華民国臨時政府の樹立を宣言し、みずからその臨時大総統に就任した。ここに清国は滅亡し、数千年にわたった専制支配に終止符がうたれ、中国に初めて共和制国家が出現したことが確認された。もっともその政治的・社会的な基盤はいまだ脆弱なものだった。それゆえ中国は当分の間、不安定な状況に置かれつづけるのである

一方、袁世凱のほうは、北京を拠点にして権力基盤を強めるやり方をとった。列強は南京の中華民国臨時政府を承認せず、あいかわらず清朝を承認していたが、袁世凱はその清朝を自分の力で消滅させ、自分こそが清朝の後継者として中国の新しい指導者なのだと、内外に印象づけようとした。かくして1912年2月12日に、清朝の最後の皇帝宣統帝溥儀を退位させた。清朝は名実ともに滅亡したわけである。もっとも溥儀は、すぐさま紫禁城から追放されたわけではなく、実権は失ったものの皇帝たる名号を名乗ることを許された。かれのそうした境遇については、ベルナルド・ベルトルッチの映画「ラスト・エンペラー」が描くとおりである。

こうして革命後における袁世凱の実権が高まっていくと、孫文は中華民国臨時大総統の地位を袁世凱に譲らざるをえないと判断した。大総統の地位を譲られた袁世凱は、孫文らの拠点南京ではなく北京に政府を置いた。中華民国北京政府の誕生である。この北京政府は以後、孫文から蒋介石へと受け継がれる革命勢力と対立することになる。その対立は蒋介石による北伐によって解消されるであろう。

北京政府は、清朝の官僚層が母体になっていた。南京からも一部の官僚が合流したが、その数は少なかった。いずれにしても満州人は姿を消し、漢族が権力の担い手になった。

北京政府の中華民国は、1912年12月から翌年2月にかけて、国会議員の選挙をおこなった。その結果、衆議院・参議院ともに国民党が圧勝した。国民党は、従来秘密結社であった中国同盟会が母体となってできた政党である。孫文はその理事長だったが、実質的には宋教仁がリードしていた。宋は議会の力を利用して袁世凱を牽制しようとした。だが、警戒した袁世凱はかれを3月20日に上海駅で暗殺させた。

その議会は、近代的な議会とはいささか趣を異にしていた。国民代表による議決機関というより、各省代表による合議機関という性格が強かった。それは、辛亥革命が各省の反乱という形で始まったいきさつを反映したものだった。いずれにしても、袁世凱は、議会が強力になるのを望まなかった。そこで、自分に敵対的な姿勢を示す国民党を解散させるとともに、14年には国会そのものを解散させた。一方、大総統の権限を強化し、専制への志向性を見せた。

かれのそうした動きは、中華民国そのものを解体し、帝国の復活を目指すところまで進んだ。1915年12月の冬至の日に、袁世凱は自ら皇帝を名乗り、自分が治める国を中華帝国と命名したのである。これには周到な準備を行っている。前年の冬至の日に、天壇で孔子を祭る行事を行い、中国流の革命の概念を人々に思い起こさせると共に、その実現に向けてさまざまな根回しをしたのである。もっとも袁世凱の皇帝在位は長くは続かなかった。わずか三ヶ月で中華帝国は廃止され、そのまた三ヵ月後に、袁世凱は失意のうちに死ぬのである。

辛亥革命への日本のかかわりは、政府レベルでは慎重であったが、民間ではこれに同調する動きが見られた。犬養毅や頭山満は上海に渡って革命運動に加わろうとしたし、梅屋庄吉は革命の映像記録を残した。その梅屋は、孫文が袁世凱との対立に敗れて日本に渡った際に、広東の実業家宋嘉樹の妹宋慶齢との結婚を仲立ちしている。宮崎滔天もその婚礼の場に同席した。

革命が勃発するや、日本にいた多くの中国人が中国に戻っていった。その中には蒋介石もいた。蒋介石は中国に渡って以降、孫文の側近として付きそうようになる。その蒋介石が、以後の中国を牽引していくので、その師匠である孫文はますます祭り上げられるようになるわけである。





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