那覇孔子廟違憲判決の意味

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先日、那覇の公有地にある孔子廟をめぐる訴訟への最高裁判決が出た。その概要を新聞で読んだ小生には、よく納得できないものがあった。孔子廟がたっている公有地を無料で貸し出すのは違憲だとしながら、孔子廟そのものの撤去は求めていなかったからだ。そこで一部の新聞は、土地の使用量さえ払えば違憲にはならないと解釈していたが、それでは孔子廟自体は違憲ではないということになる。いったいどういう法理になっているのか、疑問が残ったのである。

雑誌「世界」の最新号に、この判決についての解釈と批判が載ったので、それを興味深く呼んだ(塚田穂高「那覇孔子廟政教分離訴訟―最高裁違憲判決の意味)。宗教施設の違憲性をめぐる最高裁判決としては、これが(愛媛県玉串料訴訟、北海道砂川市空知太訴訟に続き)戦後三例目だそうである。そのほか、津地鎮祭訴訟といわれるものがある。それらの訴訟における法理に比較して、今回の判決には大きな特徴があると著者はいう。

これまでの判決では、施設の宗教性を前提とした上で、公的機関がそれを援助するのは憲法が禁止する国等による宗教活動の禁止規定に違反する(津地鎮祭訴訟)、あるいは、宗教団体への限度をこえた援助は「宗教的活動」に該当するため違憲だ(空知太訴訟)という法理が採用されていた。いずれも施設の宗教性と、それへの国等の過度の援助が問題とされていた。

ところが今回の判決は、問題となった孔子廟の宗教性についての判断には立ち入らず、「一般人の目からみて・・社会通念に照らして総合的に判断すると・・限度を超えるため」違憲だとしている。きわめて抽象的な法理になっているわけである。そこが小生にとって疑問の核心でもあるわけだ。

津地鎮祭訴訟は、地鎮祭を、社会通念上宗教活動というよりは、一般的な慣習と認められることを理由に、違憲とはしなかった。今回もある意味、それを踏襲しているといえなくもないが、結論は全く逆である。津地鎮祭訴訟では、社会通念上総合的に判断した結果合憲だとしたものが、今回は同様な判断の結果違憲となったわけである。

この文章のユニークなところは、この法理が、「公立学校おいてや公的支援を得て行われる広義の『宗教的』あるいは『疑似科学』的な実践が『国及びその機関』の『宗教活動』等にあたる」とする判断に結びつきやすいとしていることだ。そのうえで、この判決は、社会的な拡がりを持つ可能性があると指摘している。

なお、この訴訟の原告は、その動機について、「中国共産党による沖縄侵略の拠点とされることを阻止したい」と言っている。原告の真意は、那覇の孔子廟を攻撃することにあったらしいが、折角勝ち得た違憲判決が、自分らの「宗教的活動」(原告らは靖国神社の運動に深くかかわっているという)を制約することにもなるわけだ。





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