母たちの村:少女割礼を描く

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2004年のフランス・アフリカ諸国合作映画「母たちの村(Moolaadé)」は、少女割礼をテーマにした作品である。少女割礼というのは、まだ幼い頃に陰核を切除するという風習で、アフリカ諸国に広く伝わっている。この映画では、セネガルの割礼を取り上げているようだ。男子の割礼は衛生保持が目的とされるが、女史の割礼にはそういう意味合いはなく、性についての偏見からなされているとして、ヨーロッパ諸国特にフランスでは評判が悪い。反割礼キャンペーンが張られたくらいだ。この映画は、フランスでのそうした動きを背景にしたものだと思われる。フランスは、たとえば反イスラム・キャンペーンなど、異文化に対して不寛容なところがあるが、そういう不寛容さはこの映画からも伝わってくる。

アフリカのある部落。そこで六人の少女が割礼を恐れて逃亡し、そのうちの四人がある女性に保護を求めてくる。この部落には、割礼の風習がある一方、モーレーデと呼ばれる、ある種のサンクチュアリの風習があり、そのサンクチュアリには何人も立ち入ることができない。それを宛てにした少女たちが、保護を求めてきたのである。求められた女性コレは、自分自身の女児に割礼をさせなかった。それを知った少女たちが保護を求めたというわけだ。

村の人々、とりわけ女たちは、コレに少女たちの引渡しを求める。コレは頑として受け入れない。村の長老たちが説得にかかっても、コレは受け入れない。そのうち、出稼ぎに行っていた亭主が帰ってきて、コレを説得するが、それでも受け入れない。怒った亭主は、村人の前でコレを鞭打つ。それを見ていた村の女たちの中に、割礼への批判意識が高まっていく、というような内容の映画である。

それをメーンプロットとして、コレの娘アサントゥの恋人だとか、村人から傭兵と呼ばれている行商人とかが絡む。行商人は、コレに味方して村のやり方を批判した為に、成敗されて、つまり殺されてしまうのである。

アサントゥの恋人は、フランス帰りで、バリっとしたなりをし、野蛮なアフリカ人と対比して文明の代表者として描かれている。しかし文明と人権意識は必ずしも一致しないらしく、この男が割礼に反対することはない。反対するのはコレと、適齢期の女の子を持った女だけだ。それでもムーラーデの風習に守られて、強制的に割礼が行われることはない。結局村の有力者たちが根負けする形で決着するということになっている。

こんな具合で、割礼が野蛮で非人間的な風習だというメッセージに満ちた映画である。そういう意味では公然たるプロパガンダ映画といってよい。そのプロパガンダがどれくらい成功したかはわからない。フランスに暮す大勢のアフリカ人は、フランス国内で割礼が出来ないので、わざわざ祖国に戻って、娘たちに割礼を施し続けているということである。この映画の中でもあるとおり、割礼をしていない女は、一種の畸形とみなされ、結婚相手も見つからないのである。だから親たちは、無理にでも娘に割礼をさせることになる。そういう文化的なありかたが伝わってくる映画である。







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