藤原てい「流れる星は生きている」

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小川洋子が「心と響き合う読書案内」の中で藤原ていの「流れる星は生きている」を取り上げ、絶賛に近い褒め方をしていたので、小生も読んで見る気になった次第だ。小川がこの本を読み返す気になったのは、小説「博士の愛した数式」の取材のために数学者の藤原正彦と対話を重ねたことが直接の機縁だったそうだ。「流れる星は生きている」に出てくる藤原ていの次男正彦ちゃんが、今自分の目の前にいる人だと思い重ねたという。それで、小川の「流れる星」の読み方は大分違ったものになったようだ。

小川が、この作品を読んでもっとも感動したことは、母親と三人の小さな子どもたちとの強い結びつきだ。親子皆が飢えている中で、長男の正広が、自分の割り当ての食べ物を母親に差し出す。その心根の優しさが、当の母親のみならず、どんな人々をも感動させる。なにしろ極限の状態の中で、人間的な優しさを失わないでいるのは、実にむつかしいことだ。その人間の優しさを感じることについて小川は、「この場面は何度読んでも涙がこぼれてきます」と書いている。

小川はまた、藤原がやっと実家にたどりついたその時に、「これでいいんだ、もう死んでもいいんだ」と思ったことを取り上げ、自分の死が即子どもの死につながる過酷な状況を生きた一人の母親に深い同情を寄せている。

この作品は敗戦後四年目の昭和24年に刊行され、空前のベストセラーになったそうだ。当時の人々はそこに自分自身を重ねあわせ、藤原一家の舐めた辛酸を自分自身のこととして受け取ったのだと思う。言語に絶する過酷な体験をみな共有していたわけで、その共有感がこの作品をベストセラーにしたのであろう。当時の人々は、現代人の小川が感じたのとは、かなり違った感じ方をしたと思うのだが、基本的には自分自身を受苦者として感じていて、それを、藤原のこの作品にも認めたのであろう。

満州や朝鮮からの引き揚げ体験については、様々な人が書いている。その多くは、過酷な体験を強いられたという被害感情が色濃く反映している。中には、もっと客観的に事態を見ようとするものもあるようだが、その数は少ないようである。小生が手にした引き上げ体験記としては、俳優小林千登勢の「お星様のレール」とか、作詞家阿久悠の「赤い月」などがある。どちらも子どもの視点から、自分を含めた日本人の過酷な体験を語っている。だがそこには、子どもらしく、客観的に事態を見る視点はない。そういう視点を感じさせるものとしては、作家の安部公房が折に触れて発言したこととか、自分の引き上げ体験をもとに書いた小説「獣たちは故郷をめざす」などがある。そうした安部の体験記には、日本人の加害者としての側面とか、日本人同士の間の醜い関係などがとりあげられていた。安部によれば、日本人の引き上げ体験には、言うに言われぬ汚辱の部分があったということになる。

藤原のこの体験記には、加害者としての自覚はほとんど感じられないが、日本人同士の醜悪な関係については、非常に細かく描かれている。かれらは基本的には、敵から逃れているのだが、その敵の実態が漠然としている。敵はとりあえずは、日本に対して宣戦したソ連であり、また、満州や朝鮮に住む現地人である。なぜかれらを敵と感じたのか。ソ連を敵視するのはわかるが、満州や朝鮮の現地人を敵視することには独特の背景がありそうだ。日本人は、敗戦までは満州や朝鮮の支配者だったわけで、現地の人々に途端の苦しみを与えていた。だから一旦国が敗れると、これまで現地人に加えていた暴虐の仇をとられるのではないか。そうした恐怖感が、満州や朝鮮に居た日本人に、現地人への警戒感をもたらしたのではないか。

ところでこの作品を読むと、藤原の夫が強制徴用されて満州に拉致され、その後八路軍に協力させられたというようなことは書かれており、その点では日本人の被害者としての境遇は強調されているが、対現地人との関係で、日本人がひどい虐待を受けたという記録はない。だから藤原らは、自分自身の勝手な思いから、逃げ惑っていたのではないかと、思わされるところもある。満州の現地人はともかくとして、朝鮮の人々は、憐れみをかけてくれたことはあっても、積極的に迫害を加えようとした者は、この作品の中には存在しないのである。

この逃避行の中で、藤原親子は途端の苦しみを味わったわけだが、その苦しみを直接与えたのは、現地人ではなく、日本人である。同じ境遇の日本人が、互いに脚を引っ張りあい、比較的に強いものが弱い者を迫害している。その迫害に藤原は歯軋りして悔しがるのだ。だから、この引き上げ記録は、日本人の救いがたき非人間性の記録と言ってよいほどだ。

そうした日本人のひどい側面については、安部公房も触れていた。安部によれば、現地でトラブルがあった場合、日本人が責められる現場をみた日本人はみな一様に知らぬふりを決め込んだ。一方、朝鮮人は、同じ朝鮮人が責められているのを見ると、かならず他の朝鮮人がそれを守ろうとした。これは民族性の違いだろうと安部は言っている。日本人は、基本的に利己的で冷酷であって、そうした面が異常事態では特に強く現われるということらしい。

この引き揚げの中で藤原は、そうした日本人たちの利己的で冷酷な性質に苦しめられた。日本人の中には、そうした利己主義を批判的に見るものもいて、われがちに振る舞う日本人をたしなめるものもあったが、批判された当人は馬耳東風といった態度を貫いた。日本人の殆どは、互いに対して信頼感を持てないために、勢い利己的にならざるを得なかったという面もあると思う。

藤原自身は、満州において政府職員の待遇を受けていたので、かなり正確な情報に接していたようだ。かれらはソ連が参戦した8月9日には、すでに引き揚げの準備に取り掛かっている。これは政府職員の身分だからこそのことであって、ほとんどの一般人は、何も知らされないまま、敗戦を迎え、しかも日本国政府による何らの援助もないままに、その場に放り出されることとなった。これを戦後史学の常識では棄民と言うそうだ。藤原らは、少なくとも棄民にならずにすんだわけで、その点では民間の日本人に比較すれば、ずっとましだったわけである。ソ連参戦後、いの一番に家族を逃げさせたのは関東軍だといわれる。日本人の命を守ることが軍隊の最も重要な任務にかかわらず、関東軍は、民間人をほったらかして、自分の家族を優先的に逃げさせたのである。日本史上最大の汚点というべきであろう。

ともあれ、藤原ていのこのように率直な体験記は、今の子どもたち、たとえば中学生や高校生にも読ませるべきだと思う。かれらにこれを読ませて、日本近代史の汚辱に満ちた出来事とか、日本人の人間としてのあり方とかを、自分の頭で考えさせたほうがよい。そうすれば、「うちゅくしーにっぽん」などというたわけたスローガンをまともに受け取るような馬鹿者はいなくなるだろう。





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