日蓮の思想と行動

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紀野と梅原は「日蓮の思想と行動」と題して、日蓮について語り合うのだが、二人とも熱心な日蓮ファンだから、おのずと日蓮賛美の合唱といった体裁を呈する。日蓮には、人を熱中させるものがあるというように。たしかに、日蓮には人を熱中させるものがあるのだろう。熱中の真逆は反発だが、日蓮ほど強い反発を受けたものもまたない。存命中は度重なる迫害(法難)を受けたわけだし、現代人、とくに日本のインテリには日蓮を嫌うものが多い。それは日本文化にとってよくないことだ、と二人は口を揃えて言う。日蓮を正しく評価することなしには、日本文化の望ましい発展はないというわけである。

日蓮は思想と行動の両面において画期的にユニークな人だったと二人は言う。思想の面について言うと、日本の仏教者はとかく論理を軽んじるものが多い中で、日蓮は例外的といってよいほど論理的だ。その論理は法華経にあるような仏教独特の理屈に支えられているところがあるので、法華経を頭から馬鹿にする人には、日蓮の論旨は屁理屈に映るかもしれないが、しかし形式論理的に言っても、日蓮の理屈は論理的だと二人は言いたいらしい。法然の文章もある程度論理的だが、日蓮は完璧に論理的ということらしい。道元などは、文章は迫力があるものの、言っていることは非論理的だ。それに比べて日蓮の文章は、現代人にとっても十分読むに耐える論理的な文章だと二人は強調するのである。この指摘は小生にとっても参考になった。もし仏教をある程度きちんと学ぼうとすれば、最初はわかりやすい文章、つまり論理的な文章からはじめるのがよいと思うのだが、日蓮の文章は仏教の初心者でも十分理解できる内容なのだ。それにくらべれば道元の文章は非論理的で、何を言いたいのかわからぬところがあり、少なくとも初心者にとって親切な文章とは言えない、ということのようだ。

行動の面についていえば、日蓮ほど実践的な仏教者はいなかったと二人は言う。日蓮は火を吐くような勢いで自説を述べ、自説に反する他説をこっぴどく攻撃した。それは排他的と言ってもよい。その排他的な姿勢で他宗を攻撃しながら法華経の教えを説く。宗教者には、多かれ少なかれ布教の熱意が認められるものだが、日蓮ほど布教への熱意を感じさせるものはない。その布教は「折伏」という形をとる。「折伏」とは文字通り、他人を強制的に説き伏せることである。それにはすさまじい勢いが必要になる。その勢いが宗教的な熱意となって爆発する、というのが日蓮の行動の特色なのだと二人は言うのである。

日蓮が日本のインテリに人気がないのは、かれの行動がふりまく泥臭いイメージによるらしい。日蓮は自分自身を上行菩薩にたとえ、地湧菩薩であることを強調した。地湧菩薩とは地中から沸き出た菩薩、つまり土着の菩薩ということである。そこが無国籍的な国際主義の虜になっているいまの日本のインテリとは違うところだ。日本の今のインテリは、もっとも日本人らしくない日本人だというのが二人の意見だ。一方、日蓮ほど日本人らしい日本人はいない。だからいまの日本のインテリとはそりがあわないというわけである。とはいっても、日蓮は狭隘な国粋主義者ではない、とも二人は言う。法華経というのは、広く人類の救済を目的とする教えであり、たとえばユダヤ教のように民族性や国籍の差別にはこだわらない。石原莞爾のような国粋主義者が日蓮を国粋主義の先駆者に仕立てようともしたが、それは日蓮の本意ではないというのが二人の考えである。

思想と行動を通じて日蓮に特徴的なのは、現世主義と楽天性だということらしい。日蓮は末法を強調した仏教家なので、現世主義とは矛盾するように思えるかもしれないが、かれの教えの中核は即心成仏である。これは末法の時代である現世こそがそのまま浄土だとする思想を背景にしているのであり、したがって現世重視の教えなのである。そのように現世を信頼するということは、楽天性につながるものだ。近代以降の日本の新興宗教は、神道系を別にすればほとんどが日蓮系である。それはやはり時代の空気が現世重視と楽天性を帯びていたからだろう。近代以降の日本は、ある意味行け行けの積極的雰囲気が充満した社会であったから、悲観的なあの世思想より、楽観的な現世主義がもてたということだろう。

日蓮の生涯を、鎌倉時代、佐渡時代、身延時代の三つに区分することに二人は同意している。最も重要な時代は佐渡時代であって、その時代に日蓮の思想が確立され、同時に宗派としての体裁を整えたということらしい。日蓮の著作の中でもっとも重要なのは「開目抄」と「観心本尊抄」であるが、これらはいずれも佐渡時代に書かれたものである。日蓮の著作といえば「立正安国論」があまりにも有名だが、それは法然を標的にした他宗排撃の書であり、思想的にはいまだ未熟なものを感じさせる。やはり日蓮を理解するためには、佐渡時代に書かれたこの二つの著作を読む必要があると二人は強調するのである。

佐渡時代までの日蓮が疾風怒濤のような生き方をしたのに対して、晩年の身延時代は非常に穏かだったという。この時代に日蓮は、さまざまな人にあてて多くの手紙を書いた。その手紙からは、理論的な著作からがうかがえないような、日蓮自身の人柄が伝わってくるという。それを読むと、日蓮という人は、語りかける相手に応じて語り方を変えるということらしい。親鸞も多くの手紙を書いたが、それらはどれも同じようなことが書かれていた。親鸞は誰に対しても同じことを言うのである。それに対して日蓮は、相手に応じて異なった語りかけをする。それが相手の心に響く。そこには天性の説教者としての日蓮の面目が反映されているということらしい。

日蓮が晩年を過ごす地として身延を選んだのには、色々な事情があったのだろうが、その中で蒙古の襲撃から逃れるという目的もあったのではないかと二人は推測している。結果として蒙古が鎌倉に攻め寄せることはなかったわけだが、それは後世の目から見た結果論であって、その時代を生きていた人間にとっては、実に現実感のある恐怖だったと言うのだ。蒙古といえどもまさか身延までは攻めてこないだろうと予想して逃れたというのである。大地震の可能性を前に、津波の脅威を恐れる現代人にも通じる話である。

もっとも日蓮は、身延ではなく池上で死んだ。温泉療養のため常陸に向かう途中、池上で死んだということになっているが、もしかして日蓮は故郷の安房の海を見たかったのかもしれないと二人は推測している。道元や親鸞が自分の故郷である京を死に場所に選んだように、日蓮は海で死にたかったのかもしれないというわけである。とはいえ、日蓮死後その遺体は、身延に戻ってきたのであるが。





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