ナニカアル:桐野夏生を読む

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桐野夏生は、実在の人物や事件に取材した小説を得意としている。もっとも実話をそのまま再現したわけではなく、桐野流に脚色しなおしたものがほとんどのようだ。ようだ、というのは、桐野の作品を多数読んだわけではないからで、「東京島」や「女神記」などの作品を読んだ印象とか、批評家による作品論などを通じて得た意見である。

「ナニカアル」という小説は、林芙美子の半生に取材している。二つのテーマが込められている。ひとつは林芙美子の婚外恋愛、いわゆる不倫。もう一つは戦時中の軍国主義下の重苦しい雰囲気である。この二つが結びついて小説の世界が展開していく。しかも林芙美子本人の手記という形をとってである。だからこの小説の読者は、あたかも芙美子本人の口から秘密の告白を聞かされているような気になる。作家と登場人物とが一体化しているのである。

小説の構成は、芙美子の姪であり、かつ芙美子の夫だった男の妻になった女性が、芙美子の死の四十年後に、芙美子の残した手記を発見したという形をとっている。その手記は、芙美子が戦時中に書いたもので、そこには、軍に協力して南方に取材活動をしたこととか、その合間にある年下の男とセックスをしたことが書かれており、そのセックスの結晶として子どもを得たというようなことも書かれている。だいたいその手記は、子どもに自分の生まれてきた秘密のいきさつを知ってもらうことを目的としてもいるのだ。

これら一連の事柄が事実どおりであったかどうか、それは小生にはわからない。何の前提もなく読むと、事実だったようにも思わされる。だが小生は、林芙美子という作家については、放浪記など、成瀬映画の原作を数多く執筆したという以外には、ほとんど何も知るところがないから、この小説がどれほど事実に立脚しているのか全く判断がつかない。だから、そんなことを気にせずに、フィクションとして読んだ次第だ。そういうふうに読むと、主人公である語り手の人間像のほうはあまり意味をもたなくなり、戦時中の日本社会の息苦しさのほうにスポットライトがあたるような気がする。じっさいこの小説は、かなり批判的な意識に支えられているのである。

主人公が愛した男というのは、毎日新聞の記者ということになっており、主人公とは、とあることから恋愛関係になった。二人とも既婚者であり、したがっていまでいう完璧な不倫である。しかし、語り手は、自分たちのしていることの不倫性にはあまりこだわってはいない。こだわっているのは、時代の雰囲気が自分たちに加える圧迫である。不倫相手の男には、どうやらスパイの嫌疑がかかっている。そのため、恋人である自分にもあらぬ疑いがかけられている。それを主人公は、最初の頃は深く受け止めていなかったが、次第にその重圧に気づかされるようになる。悪いことには、自分自身が相手の男を本物のスパイではないかと疑い始めることだ。二人が破局するのは、そうした疑いのせいなのだ。

小説は、主人公とその男とのセックスとか、その男への軍部の疑いとかを主に描いていく。主人公には、軍部から一人の従卒がつけられるのだが、それは従卒などではなく、自分を監視するためのスパイだったというようなことが語られていく。それを知った主人公は、自分のお人よしさにあきれる一方、権力の威圧を強く感じさせられる。彼女は自分が権力によって押しつぶされるようになるのを感じるのだ。しかし、結局自分自身に禍が及ぶことはなく、また相手の男もなんとか無事で生き延びる。かれらへの軍部の嫌疑は、公然化することはなかったのだ。そのかわりに、語り手の芙美子には一人の子どもが残されるのである。その子どもを芙美子は孤児をもらったということにして育てる。しかしそれでは子どもに気の毒だ。そこでいつか子どもが読むことを期待しながら、この手記を書いたというような体裁になっているのである。もっともその子どもは、少年時代に死んでしまい、この手記を読むことはなかったということになっているのだが。

以上の筋立ては、おそらく桐野が考え出したものであろう。林芙美子が戦時中に南方へ取材のため派遣されたことは事実であり、その際の印象記なども公開しているが、桐野はそうしたことを参考にしながら、小説の基本プロットはフィクションとして考え出したのではないか。そのさいに、「浮雲」をはじめ林のほかの小説も一部取り込んだようだ。たとえば、芙美子が相手の男の自宅に押しかけるシーンなどは、「浮雲」をかなり意識しているように聞こえる。

ともあれ、この小説を読むと、戦時中の日本人がいかに国家権力によって威圧されていたかがよく伝わってくる。登場人物が作家だとか新聞記者だということも、そうした事情に拍車をかけているのかもしれないが、個人の生活が権力によって全面的に監視されているということは、じつに気味の悪いことである。その気味の悪さをこの小説は如実に描き出しており、それにかなり成功していると思える。

なお、この小説には窪川(佐多)稲子とか久米正雄とか実在の人物が出てくる。久米は俗物として描かれ、窪川は共産党シンパとして権力に対して厳しい見方をしているというふうに描かれている。それに対して芙美子のほうは、ほとんど無自覚である。実際にもそうだったのだろう。芙美子は戦後、軍部への協力ぶりを強く批判されたのだが、それは時代の雰囲気に流されたためだったと思われる。つまり自覚が弱かったわけだ。

「ナニカアル」というタイトルは、芙美子の詩の一節からとったということになっている。その詩は、生きることの屈託について歌ったものだ。その屈託の内実が何なのかは、表面化されていない。





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