情事:ミケランジェロ・アントニオーニ

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ミケランジェロ・アントニオーニの1960年の映画「情事(Avventura)」は、ちょっとした反響を呼んだし、いまでは映画史上画期的な作品との評価が高い。同じ年に公開されたフェデリコ・フェリーニの作品「甘い生活」と比較され、どちらも男女の関係を全く新しい角度から描いた前衛的な映画だと言われたものだ。以来、アントニオーニとフェリーニは、新しい映画の旗手として一目置かれるようになる。フェリーニのほうは、その後「8 1/2」など、奇想天外な作風にはまっていくのに対して、アントニオーニのほうは、愛の不毛三部作と呼ばれるような、人間の愛の不条理を追求していく。

この映画は、ミステリー仕立てで男女関係を描いた作品といえる。恋愛と呼ばずに男女関係というのは、この映画の中での男女の関係が、普通の意味での男女の恋愛関係とかなりずれているからだ。徹底した個人主義者として知られるイタリア人にとっても、男女の恋愛関係には普遍的なところがある。男女は運命の意図に操られるようにしてひきつけあい、精神的に結ばれる一方で、肉体を通じても結ばれるというのが普通の形だ。ところがこの映画の中の男女は、必ずしも精神的に結ばれるわけでもなく、また肉体を通じて深く結ばれたいというような雰囲気も感じさせないのだ。そこが「愛の不毛」と呼ばれる所以だと思う。

邦題は「情事」となっているが、日本語で情事といえば、不純性交といった意味合いが強い。だがこの映画の中の男女は、別に不純な性交に耽るわけではない。第一画面には男女が性交するシーンは映し出されないのだ。男女がそれらしき行為をしたとほのめかされることはあるが、それはあくまでもほのめかしであって、男女が二人きりになれば、自然と性交にまで発展するだろうという思い込みを見越してのことだ。

レア・マッサリ演じる金持ちの娘アンナ、その恋人のサンドロ(ガブリエル・フェルゼッティ)、アンナの私設秘書クラウディア(モニカ・ヴィッティ)を中心にして映画は展開していく。アンナとサンドロは互いに相手に飽き始めているが、まだセックスは続けている。クラウディアはアンナの秘書として、彼女の濡れ場にもつき合わさせられる。しかし文句は言わない。クラウディアにはレズビアンの資質があって、アンアを秘かに愛しているようにも伝わってくる。

そんな三人が、仲間と共にちょっとしたクルージングを催し、とある無人島に立ち寄る。その無人島で、アンアが忽然として姿を消す。サンドロとクラウディアは無論、数人の仲間たちも必死になってアンナをさがし。警察まで巻き込んで大規模な捜査も行われるが、アンナの姿は発見されない。そういうところに色々な情報がもたらされて、アンアは誰かに連れ去られたのではないかとか、自ら別の船に飛び乗って去ったのではないかとの憶測が生まれたりする。クルージングの仲間は一旦解散するのだが、サンドロとクラウディアは引き続き独自捜査を行う。そうしているうちに、二人の間に新たな愛が生まれる、というような筋書きである。

この映画には、よく飲み込めないところがあるので、上映当初から色々な憶測が飛び交った。アンナが消えたのは、誰かに殺されたためで、殺したのはクラウディアではないかとか、そうではなく、クラウディアは性的な憧れの対象であったアンナをずっと愛していて、その愛が彼女をアンアの捜索に駆り立てているのだ、というのが代表的なものだ。

アンナがクラウディアを殺したという前提に立てば、表向き不可思議な部分の説明はつく。彼女は貧しい境遇で、日頃から豊かなアンナに嫉妬を感じていた。そこでアンアを殺すことで自分がアンナの立場になり、アンナの恋人も自分のものにする、そういう打算が働いていたのではないかと推測できるのだ。そう推測したところで、この映画とルネ・クレマンの映画「太陽がいっぱい」との共通性を感じさせられた。「太陽がいっぱい」は、あのアラン・ドロンを一躍大スターにした映画だが、やはり1960年に公開されている。その映画の中では、アラン・ドロンが親友を殺して、自分がその親友になりかわるばかりか、親友の恋人まで自分のものにするといった内容だった。その映画の中のアラン・ドロンを、この映画のモニカヴィッティに当てはめれば、男女が入れ替わるだけで、ほとんど同じようなテーマを描いたということになる。

これはあくまでも想像力の遊びなので、たいした根拠があるわけではない。しかし、一応ミステリー映画の体裁をとっていることもあって、そんな想像をうながすのは、むしろ名誉なことといわねばならぬだろう。とにかく色々な意味で、当時としては前衛的な映画だったことは間違いない。





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