デンジャラス:桐野夏生を読む

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桐野夏生には、実在の人物や現実に起きた事件に取材した一連の作品がある。「デンジャラス」もその一つだ。谷崎潤一郎とかれを取り巻く女性たちをテーマにしている。谷崎は多感な男で、数多くの女性とかかわったが、この小説が描いているのは、「細雪」に出てくる女性たちとのかかわりだ。「細雪」四姉妹のうち、三女の「雪子」に相当する女性の視点から描いている。その小説では、彼女は「重子」という名で登場するが、これは彼女の本名である。その他の人物も多くは本名で登場している。

こんなわけで、「細雪」で描かれた世界を、別の視点から描きなおしたというところか。とはいっても、「細雪」の世界ばかりでなく、その後のことも描かれている。その筆は谷崎の最晩年まで及ぶから、「細雪」別伝というより、「谷崎半生記」といったほうがよろしいかもしれない。

「細雪」とかぶる部分については、すでにしっかりした作品があるわけで、新たな読み物として読者の期待に応えるためには、ひと工夫が必要だ。でないと退屈な二番煎じになってしまう。そこで、「細雪」が描かなかったことを描くというやり方があると思う。谷崎自身、「細雪」は軍部の検閲をおもんばかって、あまり露骨なことを書くわけにもいかず、妥協的な内容になってしまった、「頽廃的な面が十分に書けず、綺麗ごとで済まさねばならぬやうなところがあった」と書いているから、そうした綺麗ごとですまない部分に注力すれば、原作とはかなり違った雰囲気の小説が出来上がったかもしれない。だが、どういうわけか、桐野はかなりおとなしい、綺麗ごとの小説ですませてしまったようである。それだから、「細雪」とかぶる部分については、二番煎じのそしりを免れないだろう。ただ、小説の語り手が女性であるところに、原作とは違った雰囲気を感じることができる。これは女性の目からみた「細雪」の世界なのである。

綺麗ごとでない部分は、千萬子という女性に担わせている。「瘋癲老人日記」の颯子にあたる女性である。この颯子に、老いた谷崎が執着する様子は、まさに綺麗ごとではすまないのであるが、これもやはり露骨には描かれていない。描かれているのは、いままで谷崎の愛を独占してきた語り手たちが、その愛を千萬子にうばわれることへの反感である。その反感の内実は、若い女への老いた女の嫉妬であるから、あまり見られたものではない。人目にも恥ずかしいようなことである。その恥ずかしさを恥ずかしさと思わず、ひたすら嫉妬するというのが、この小説の語り手なのであるから、読者は、老女の繰り言を聞かされている気持ちになる。老女の繰り言は、あのフランソワ・ヴヨンも書いたところであり、それなりに文学的感興を呼び覚ますものではあるが、それは第三者の男の目を通しているからであり、老女本人の繰り言は、やはり聞き苦しいものである。

この千萬子という女性は、語り手の重子にとっては、息子の嫁である。谷崎の周辺の人間関係は複雑で、三人目の妻におさまった松子には二人の連れ子があった。そのうち長男は重子の養子となり、娘のほうは谷崎の養女となった。谷崎は、原則として自分のまわりを女だけでかためた。男は厄介者なのである。そこで子のない重子が松子の長男清一郎を養子にとった。その嫁として千萬子がやってくるのである。この千萬子がやがて、谷崎の愛を独占するようになる。千萬子には独得の魅力があって、谷崎はその魅力のとりことなってしまうのだ。小説「瘋癲老人日記」は、谷崎と千萬子との間で実際におきたことがそのまま描かれているように思われているが、実際にはそうではなかったらしく、この小説の中で谷崎がひれ伏すのは重子の足なのである。

ところで、重子自身は美作津山藩の殿様の息子と結婚したのであった。とはいっても、妾腹であることから、松平姓は名乗らず。渡辺姓を名乗った。その渡辺姓は小説の中では田辺姓になっている。だから、嫁の千萬子も当然田辺姓である。いずれにしても血がつながっていない息子の嫁であり、しかもその息子は姉の長男だということもあり、重子と息子夫婦の関係には複雑なものがあった。そんなことに加えて、谷崎が千恵子を溺愛し、それが重子の自尊心をいたく刺激した。重子にとって千萬子は、息子の嫁というよりは、谷崎をめぐるライバルとしての位置づけになったのだ。千萬子にそんな意識があったか、よくはわからぬが、こと重子に関しては、千萬子を恋のライバルとして、対抗心をむき出しにするのである。そのあたりのくだりを読むと、女の執念に呆れかえるほどである。

タイトルの「デンジャラス」は、谷崎の千萬子への溺愛が度をすぎたらひどいことになるだろうと匂わせたつもりだろうと思う。実際には、デンジャラスな事態には至らなかった。小説のなかでも、谷崎をめぐる女の戦いは重子の勝利に終わったということになっている。重子は、自分と千萬子とどちらをとるかと谷崎に迫り、自分をとらせることに成功するのだ。その際重子は、谷崎に、昔言った言葉をもう一度確認させる。「重ちゃん、ずっと一緒にいてください。死ぬ時も一緒です。僕はあなたが好きです。あなたのためには、すべてを擲つ覚悟があります」

これがまた、谷崎には命とりになった。恋の刺激を失った谷崎は、生きる気力も失うのである。もっとも小説は、そこのところまでは踏み込んでいない。ただ重子が勝利したことを強調するばかりである。

そんなわけでこの小説は、谷崎という男に支配されていながら、実は谷崎を支配しかえした女の物語なのである。谷崎は、実像としても支配的なところがあるのだが、その支配は、支配されることの喜びと裏腹のものだった。谷崎には、若いころからマゾヒズムの傾向があったことが指摘されるが、そのマゾヒズムに、この小説は光を当てているわけでもある。

谷崎は実にユニークな人間で、よきにつけ悪しきにつけ、人の興味を引かずにはいないのだが、その谷崎の男としての魅力を、女の重子が礼賛しているのはどういうことか。重子は谷崎を、希にみる美男子のように描いているが、「痴人の愛」のモデルになった最初の妻の妹は、谷崎をチビで醜男だと罵っている。そんな男でも、恋する女の目には、欠点のない男に見えるのだろう。

なお、桐野はこの小説を書くにあたって、渡辺千萬子、高萩たをりに取材している。たをりは、千萬子の娘であり、小説ではのゆりという名で出てくる。この二人が取材に応じたということは、なかなか興味深い。この小説が意外とおとなしいものとなったのは、彼女らに対する桐野の配慮のためかと思われる。





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