井出孫六「中国残留邦人」

| コメント(0)
井出孫六は、社会派の作家として知られ、ルポルタージュ作品も多く手掛けている。なかでも有名なのは、秩父困民党にかかわる一連の業績である。連続射殺魔といわれた永山則夫に関心を示し、その作家としての活動をサポートしたりした。その井出が、中国残留邦人問題に強い関心を持ったのは、自分の出身地である信州佐久谷をはじめ、長野県の各地から満蒙開拓団が多数組織され、そのかれらが敗戦の混乱にまきこまれて、多くの子供や女性が中国に残留を余儀なくされたことへの、人間としての義憤を感じたからだということが、この本「中国残留邦人」(岩波新書)からは伝わってくる。

「中国残留邦人」という言葉は、井出が特に使いだしたということらしい。一般的には「中国残留孤児」という言葉がまず用いられ、あとでそれに「中国残留婦人」という言葉が付け加わった。これは年齢や性別によって人の境遇を差別するものであり、しかも、婦人については、自己責任論の匂いも感じられる。そこで、かれら残留日本人の境遇が、基本的には年齢や性別によって差別できるものではないという思いを込めて、「中国残留邦人」という言葉を意識的に用いているということらしい。

中国残留邦人の問題については、体系的な調査・研究の積み重ねはないようである。戦時中の、とくに海外進出にともなう事柄については、軍事的な性格の問題を含めて、体系的な調査・研究が蓄積されてきたとは到底言えない状況なので、なにもこの問題の扱われ方が特異というわけではないが、それにしても、この問題に関する日本人の鈍感さは、驚くべきほどである。同じ敗戦国として、ドイツが、旧東プロイセン地域の住民や、中・東欧諸国に進出して敗戦時に迫害された民間人に対して、国をあげての救済・補償のシステムを作ったのに比較すれば、日本の無頓着といってもよい突き放した対応は、あまりに冷酷すぎるというのが、井出の人間としての思いである。

それには、日本政府の棄民主義的な体質がかかわっていると井出は考える。敗戦に伴う戦後処理の一環として、日本政府は「居留民はできる限り現地に定着させる方針」をとった(ポツダム宣言受諾に関する外務省訓電)。つまり、足手まといになるおそれのある民間人を、現地に置き去りにする方針をとったわけである。その後の日本政府の在外居留民に関する政策は、この方針に沿うように、極めて冷酷なものとなった。置き去りにされた居留民は、ソ連軍や現地住民によって攻撃され、塗炭の苦しみをなめされられたうえに、望郷の念を抱きながら、長い間中国にとどまらざるをえなかった。だからこの問題は、国策によって齎されたものである。それゆえ国に重大な責任がある、というのが井出の基本的な考えである。

敗戦時に満蒙地域にいた日本人のうち、軍関係者もソ連によるシベリアへの拉致及び強制労働などの苦難を舐めさせられたわけで、なにも民間人だけがひどい目にあったわけではなく、敗戦国としての日本の国民がおしなべてひどい目にあったわけだが、それにしても、結果的に中国に残留することになった日本人は、老人・女性・子供など弱い者を多数含んでいたわけで、そのかれらが塗炭の苦しみを舐めることとなったことには、日本政府として重大な責任を感じるべきであろう。ところが日本政府は、旧軍人の救済・補償には熱心だったが、民間人に対しては冷酷だった。それは国家としての道という以前に、人間としての道に外れるのではないか、というのが井出の怒りの内実である。

中国残留邦人は、ほとんどが満蒙地域に集中している。敗戦時に海外にいた日本人は約660万人、うち旧満州には155万人、そのうち「満蒙開拓団」の在籍者が27万人だった。根こそぎ動員で現地召集された者を除くと22万人、そのほとんどが老人・女性・子供だった。これらの弱者たちが、塗炭の苦しみを舐めたあげく、その一部がいわゆる中国残留孤児とか中国残留婦人の境遇に陥ったわけである。満蒙開拓団の人々が、ソ連軍や現地の人々によって迫害された例は数えきれない。代表的なものとして「葛根廟事件」が語られることがあるが、ほとんどの日本人はそうした話を知らない。それほど中国残留邦人問題は、日本人の意識から抜け落ちている。政府もそうした無意識のうえに胡坐をかいて、問題の解決をさぼってきた。

そもそも満蒙開拓団は、国策として推進されたものである。当初は、関東軍の幹部によって、準軍事的な目的から立案されたものだったが、そのうち国をあげて推進されるようになった。その場合に、国は都道府県ごとに開拓団編成のノルマを課し、最終的には、満蒙の地に百万戸の移民団を実現する計画だった。移民たちに割り当てられた土地が、中国人から奪ったものであったことはいうまでもない。そういう点では、満蒙開拓団は、日本の中国侵略の先兵としての役割を果たしていたのだが、当の移民たちにそういう意識があったかどうかはわからない。いずれにしても、満蒙開拓団が、招かれざる客であることは間違いないわけで、日本の敗戦の結果、かれらにどういう境遇が待っているかは、明らかだった。そんなかれらを、「できる限り現地に定着させる方針」を日本政府はとったわけだから、要するに見殺しにしたのだといわれてもおかしくはない。

戦後外地からの引き上げが本格化するなかで、日本政府は、満蒙開拓団の引き上げには熱心ではなかった、と井出はいう。それには、日本側に外交的な権限がなかったという事情もあり、また、中国が内戦状態で混乱していたという事情もあっただろう。だが、そういう事情をさしひいても、日本政府が満蒙開拓団の帰国に熱心でなかったことは間違いない。とくに吉田茂首相は不熱心だったし、しばらく後の岸信介首相は、大陸からの帰還事業を妨害したほどだったという。

日中間の国交がない中で、残留邦人は長い間放置された。事態が動いたのは、田中角栄内閣によって日中間に新たな関係が確立されて以降のことだ。帰還事業が国によって行われ、大勢の残留孤児がまず、日本にやってきて肉親捜しを行った。その頃から井出は、この問題に深くかかわったようである。井出は、残留邦人の立場になって、彼等の権利を実現するよう手助けすることをめざしたが、そうした彼の目には、日本政府の仕打ちはあまりにも非人間的と映ったようだ。日本政府の冷酷な仕打ちに絶望した残留邦人らは、ついに国家賠償請求訴訟までおこしたのだったが、それは単に失われた過去への補償というにとどまらず、人間として生きるうえでの支えを求めてのことだった。かれらは中国に、養父母を含めた家族がおり、できたらその家族と一緒に生きたいと願っている。ところが日本政府は、救済の対象を、基本的には残留邦人個人に限定し、その家族までは考慮していない。それではあまりにも現実を無視したやり方ではないか。この問題は、戦争遂行のための政府の政策に端を発したのであるから、その後始末にも政府は責任を負うべきだというのが、原告の主張の要だった。その言い分はよくわかるような気がする。

なお、井出は、長野県から送り込まれた満蒙開拓団の一覧表を示している。1939年2月11日から1944年4月1日までの間に送られた24の開拓団の内訳が示されている。その大部分は郡単位に構成されたものである。敗戦時におけるそれら在団者の(出征者を除く)総数は8190人、うち引揚者は2949人、死亡は4869人、残留は326人である。死亡の割合が60パーセントに達していることに、これら開拓団の運命の苛酷さが表れている。





コメントする

アーカイブ