性に関する三つの論文:フロイトの性欲論

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フロイトの理論体系には二つの柱がある。無意識の強調と性欲論である。フロイトは、人間の行動に及ぼす無意識の役割をはじめて体系的な形で明らかにした人である。それまで無意識は、哲学においても科学においてもほとんど着目されることがなかった。その無意識の意義を、精神分析を通じて明らかにした。ほぼ同じ頃に、やはりユダヤ人であるベルグソンが、哲学の領域で無意識を取り上げた。この二人の業績によって、無意識は人間の心を構成する重要な領域として、哲学的にも科学の上でも前景化されることになったのである。

フロイトの発見した無意識は、性的な内容によって充たされていた。その理由をフロイトは色々考えるのだが、性が人間にとって根源的な欲動であるのに、とかくに抑圧される傾向が強い。その抑圧が性に関する欲動を無意識化すると考えた。一方、ベルグソンのほうには、無意識と性欲とを結びつける発想はない。無意識と性欲とを深く結びつける発想はフロイト特有のものである。フロイトはその結びつきを思弁的ではなく、実証的に証明しようとする態度を貫いたので、かれの性欲論は、その後の精神科学に甚大な影響を与えた。

フロイトは初期のヒステリー研究や夢の分析のなかで、折に触れて無意識やその内容である性的抑圧について触れていたが、その無意識を正面から取り上げて、体系的に論じようとしたのが「性に関する三つの論文」である。この論文集は1905年、フロイト49歳のときに刊行されており、前期の精神分析的研究を後期の一連の社会理論につなぐ橋渡しの役割を演じている。フロイトはここで確立した性欲論を土台にして、人間社会の成り立ちについての壮大な理論体系を構築していくのである。そんなフロイトの社会理論の特徴は、社会を成り立たせている根源として人間の心理的な傾向を強調し、その傾向の中核に性欲を見るというものである。

この論文集は、「性の錯行」、「小児の性愛」、「思春期における変態」という、それぞれ「性に関する三つの論文」からなっている。「性の錯行」は、成人における性的変態について分析し、「小児の性愛」は文字通り小児期における性欲を分析しており、また「思春期における変態」は、思春期を迎えた男女が健全な性関係を築けずに変態に陥るメカニズムについて分析している。そこから浮かび上がってくるフロイトの性欲論の特徴は次のようなものである。

フロイトはまず人間の性へのこだわりというか、性欲と言われているものを、科学的に定義して「性欲動」と名づける。しかしてそれを「リビドー」と言い換える。「性欲動」を意味する適当なドイツ語がないというのがその表向きの理由だが、本音としては、従来の学問の枠をはみだすような事象を厳密に定義するために、手垢のついていない言葉を使いたいということなのだろう。その「リビドー」は、性欲の対象たる「性対象」と、性欲の目的たる「性目標」とに分かたれる。「性対象」とは性愛が向けられる相手のことであり、「性目標」とは相手との間で、あるいは自分自身との間でなされる性的行為のことである。普通の人の場合、この「性目標」は男女の間の性的結合という形をとるわけだが、何らかの理由から、そこから逸脱した行動をとる者もいる。そういう人達を世間では変態者と呼び、その行為を性的倒錯と呼んだりする。しかし、よくよく分析してみれば、いわゆる正常と変態との間には絶対的な境界はなく、相対的な差があるにすぎないというのがフロイトの基本的な見方である。あなたも、もしかしたら変態に陥っていたかもしれない、というわけである。

さて、フロイトの性欲論の特徴をごく単純化して言うと、次のようになる。人間の性欲は、すでに幼児の時点からあらわれる。母親との間の皮膚接触や母乳の吸引という本能的な行動が既に性的快楽を含んでいるというのである。こうした性的快楽を享受する傾向は、おそらく先天的・遺伝的なものなのだろうが、快楽の体験そのものは経験として内面化される。人間というものは、遺伝的に受け継いだ傾向性の上に体験を重ねていくことで、社会的な存在として自己を確立していく、というのがフロイトの基本的な考えである。

小児期の性的体験は、無意識のうちに沈殿して、その後意識化されることはない。普通の人間は、その段階を過ぎて思春期を迎えると、だいたい男女の間の性器結合という形の性愛に進んでいくのであるが、なかにはその普通のあり方から逸脱する者もいる。そうした人達の逸脱の理由を探っていくと、小児期における性的体験に何らかの問題を抱えていることがわかる。要するに、小児期の性愛を過渡的なものとしてうまくやり過ごしたものは、正常な性的行動をとれるようになるのに対して、小児期の性的体験に何らかの異常が生じ、それが無意識のうちで抑圧されていたものが、思春期以後顕在化する場合がある。それが神経症といった形をとったり、性的変態という形をとるとフロイトは考えるのである。だから「性的変態は神経症の陰画である」というような言い方をフロイトはするわけである。

このようにフロイトの性欲論は、小児期の性的体験に非常に大きな意義を認めるところに特徴がある。小児にも性欲があるなどとは、フロイト以前に主張した者はいなかったし、また、小児の性欲を云々すること自体がスキャンダラスに映ったので、フロイトの性欲論は大きな反発を招いた。その反発の依って来る理由をフロイトはよくわかっていたので、理屈で反論しようなどということはせずに、あくまでも事実そのものに弁解させる方法をとったのである。事実の前には如何なる偏見も打ち砕かれる、という信念があったればこそのことであろう。

小児の性欲についてのフロイトの議論は、「小児の性愛」の中で詳細に展開されている。性愛の対象が自分自身に向けられる「自体愛」だとか、肛門を通じた快感が性的な体験に大きな役割を演じるとか、性器を通じての快感も手淫という形で小児期にすでに現われているといった指摘は、小児と性愛との関係についての従来の常識的な見方を大いに揺るがすものだった。そんなこともあって、フロイトを批判する人々は、人間の行動を何もかも性欲と結びつける性欲至上主義者だといって罵り、フロイト自身が性的倒錯者だといわんばかりだったのである。





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