サード:東陽一

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東陽一の1978年の映画「サード」は、かれにとっての出世作になった作品。翌79年の「もう頬杖はつかない」とともに、ユニークな青春映画作家としての名声を確立した。東の代表的な映画は、子どもや青年の感性のようなものをテーマにしているので、「サード」はそうした東の映画的な感性が前面に出た作品といえよう。

テーマは、少年院に入れられた少年たちの生態である。少年院をテーマにした映画といえば、羽仁進の「不良少年」が有名だ。東のこの映画は、羽仁のものを強く意識しているようだ。この映画に出てくる少年院の名称は「朝日少年院」というのだが、朝日というのは、「不良少年」の主人公の名前なのである。

「不良少年」では、手のつけられない不良が少年院に入れられる。かれにはそれなりの背景があった。戦災孤児と変らぬ境遇で、子どもの頃から辛酸を舐めた。生きるためには、多少手荒いこともせざるを得ないのだ。そこには敗戦後間もないという時代背景も反映していた。ところがこの「サード」に出てくる少年少女たちは、辛酸を舐めるような貧しい暮らしをしているわけではない。決して豊かとはいえないが、そこそこに快適な暮らしをしている。そんなかれらが悪に手を染めるのは、金が欲しいからだ。かれらは退屈な田舎から脱出して、派手な都会暮らしをしたいのだが、それには金がいる。その金を稼ぐ為に、奇想天外なことを思いつく。売春だ。

この映画に出てくる主人公たちは、同じ高校に通う四人の男女だ。男が二人女が二人。売春で金を儲けようと言いだしたのは女子二人のほうだ。彼女らは自分の体を金で売ることに罪悪感をもっていない。金になるなら何でも売る。それがたまたま自分の体であってもおかしくはない。むしろ自分の持ち物を自分で処分するのは、自分の権利だと思っている。

彼ら彼女らはまだセックスの経験さえない。そこで他人相手に売春をする前に、自分たち同士でセックスの仕方を確認したり、性的な知識を仕入れようとする。まず、どんなふうにセックスをするのかがわからない。男も女も、男根を膣に挿入するくらいの知識はあるが、膣の入り口がどこにあるかよくわからないほどナイーブなのだ。せっかく入ったと思えば痛みしか感じない。要するに健康な性欲を感じていないので、膣が濡れていないようなのだ。かわいた膣に無理に男根を突っ込むと痛みしか感じない道理である。

準備万端整った四人組は、東京の繁華街に出てきて、客をとる。しかしそのうち、ヤクザ者に係わり合いをもつことになり、ちょっとした諍いから主人公の少年がそのヤクザ者を殺してしまう。その結果、一応障害致死という罪名がつけられて、少年院に送られるのである。

映画は、永島敏行演じる少年が、少年院に入れられて、さまざまな体験をする一方で、過去を振り返るというような構成になっている。そこは「不良少年」と同じだ。「不良少年」のほうは、過去の回想はあくまで背景設定として付随的な意味を持つにとどまるのに対して、この映画では、過去の回想のほうに重点が置かれる。その過去における少年たちには、露骨な悪を感じない。かれらが犯す反社会的行為は売春だが、売春は相手を傷つけたり搾取するものではなく、自分を金で売る行為だ、だからそれに反社会性を認めて罰しようとするのは社会の側の横暴ではないか。そんなメッセージがほんわりと伝わってくるように作られている。

未成年の少女が大人の男に身をゆだねてセックスをしつづける。彼女らにはそれを楽しんでいる様子がある。だが、ヤクザ者のセックスの仕方は違った。この男は三時間以上にわたり女子高生の性器に攻勢を仕掛け、女子高生はクタクタになってしまうのだ。その姿を見て逆上した永島が、重い物体でヤクザ者の頭をかちわり殺してしまう。その罪で永島は少年院に入れられるのだが、別に反省とか後悔をしているわけではない。ただ、少年院の窮屈な生活がうっとうしいだけだ。

この映画の中では、永島演じる少年が大柄であることもあって、かれはたいしたいじめを受けない。そこは「不良少年」の朝日少年とは違うところだ。だから、少年院内の生活は、「不良少年」におけるほど陰惨な雰囲気はない。

「サード」というのは永島演じる少年のあだ名だ。かれは高校の野球部でサードを守っており、皆から「サード」というあだ名で呼ばれていた。かれの相棒は「2B」ということになっているが、それは先を尖らせた2Bの鉛筆で、色々な芸当をやることから来ている。かれはそれで、火をおこしたりも出来るのだ。映画のラストシーンは、その二人がグランドを走る場面を映し出す。そのグランドには、戻るべきホームベースがないので、かれらはほぼ永遠に走り続けねばならないのだ。





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