日本人のパンパン・コンプレックス(その五)

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記紀神話は、太古の日本が女性優位社会であったことの遠いこだまのようなものだったといえる。記紀神話が編纂された奈良時代初期には、次第に男性優位の社会へとかわりつつあった。それを反映するように、神武天皇以後の歴代天皇は、神話的なものも実在したものも、みな男性的な原理を体現しているように描かれている。それでも、女神である天照大神を皇室の祖先としたのは、やはり長く続いた女性優位社会の記憶が、いまだ強く残っていたことを物語っているのではないか。

太古の日本が母系社会であったことは、考古学的な研究からも明らかにされている。縄文時代から弥生時代にかけて、日本人の住居は、竪穴式が基本だった。地面を一尺ほど切り下げ、穴の周囲に柱を立てて、藁のような植物繊維で屋根を覆い、壁を作るというものだ。そんなに大規模なものにはならない。せいぜい四・五人ほどの人間を容れるに過ぎない。そこに母親とその子どもたちが一緒に暮らすというのが、基本だった。そうした住居が、せいぜい数十戸集まって集落が形成されていた。それらの集落は、氏族の協同体であったと考えられるが、共同体の内部はきわめて平等だったと思われる。母系が基本であるから、どの家も母親が主人であり、父親は外部から通ってくる存在だった。家を含めて母親の持っている財産は、娘へと相続された。こうしたシステムが可能だったのは、共同体による構成員の包摂が完璧だったからだろう。どの家族も、孤立した経済を営んでいるわけではなく、大部分が共同体によって支えられていた。だから、女が男に捨てられ、子どもとともにとり残されたとしても、困窮することはなかった。

こうした社会のあり方は、原始共産制と言ってもよい。そこでは、女は特定の男に従属することがなく、むしろ複数の男を手玉にとるようなこともあった。こうした婚姻形態は、モルガンが群婚と名付けたものだ。群婚は、男が女を共有する制度だと見られているが、見方を変えれば、女が男を共有する制度といえなくもない。要するに男女どちらかが一方的に異性を支配するものではない。女が男を支配するというのは、イメージとして浮かび難いから、異性の支配という場合、男が女を支配することだというほかないが、古代の日本においては、男が女を支配することもなく、また女が男を支配することもなかった。両性は平等だったのである。それを可能にしたのは共同体の結びつきだった。男も女も共同体の一員として生きることで、共同体によって守られていた。

モルガンは群婚を人類の婚姻のもっとも古い形態と言ったのだったが、フロイトは一夫多妻制がもっとも古い婚姻形態だったという仮説を提起した。フロイトによれば、原始時代の人間の家族は、一人の強力な男によって率いられており、その男の支配下には、複数の妻と大勢の子供がいた。そのような男をフロイトは原父と呼んだ。家族内での原父の力は圧倒的で、父親は家族のすべての女を自分が支配し、息子たちが手を触れるのを許さなかった。そこから息子たちによる原父殺しがおこり、それが強い心理的コンプレックスをもたらし、そこから宗教をはじめとした人間文化が発生したというのが、フロイトの見立てである。

日本の古代社会がフロイトの仮説によって説明できないのは明らかである。フロイトは父権を人類のそもそものスタートに位置づけたのだが、日本では、そのような父親は存在せず、母親が人類を最初にまとめた。そうした母親に体現される女性原理が、記紀神話からも古代遺跡からもうかがわれるのである。

母親中心の母系社会は、縄文時代から弥生時代を経て、奈良時代の直前まで、日本社会の基本的なあり方だった。記紀神話が編纂されたのは、天武天皇の命令によってであり、その天武天皇は日本の歴代天皇の中で、名実ともに男性原理を色濃く体現した人物である。天武天皇は天智天皇の遺産を獲得する形で権力を握ったのであったが、天智天皇は、男性である天皇が日本全体を直接統治するという体制をはじめて整えた人である。その体制は、男性原理を採用したものだったが、しかし天智天皇自身女性原理を無視することはできなかった。かれは大化の改新後にもすぐに皇位につこうとせず、母親の斉明天皇の影に隠れるかたちをとった。それは、一説には実の妹と結婚していることを憚ったからといわれているが、やはり母系社会の原理がいまだ強く残っていたことの現れだと見たほうがよい。

天武天皇に至ってはじめて、日本は、公式的には男性原理が支配する体制になった。しかし、女性天皇はその後も続いたし、庶民のレベルでは、母系社会の伝統が色濃く残った。通い婚とよばれる婚姻形態はその最たるもので、これは平安時代いっぱい貴族の間で存続していた。かの藤原道長も、妻の家に通った。伊勢物語には、業平が母と同居しながら、さまざまな女の家に通いわけるさまが描かれているが、それは当時の貴族の一般的な風俗だったと思われる。貴族がそうなのであるから、庶民のレベルではいっそう、女性原理が強く働いていたと見られる。

男性原理が支配的となるのは、武士層を通じてであった。武士は戦闘を生業とすることから、おのずから男性同士の結びつきを重視した。それが婚姻形態にも影響した。従来のような通い婚にかわって、嫁とり婚が普及した。これは女を男の家にひきとるというもので、婚姻における男性優位を物語るものであった。男たちは、結婚、すなわち女のやりとりを通じて、互いに結びつき、男性優位の武士社会を形成していったのである。

もっとも、男性優位原理が一直線に進んだわけではない。鎌倉時代初期は武士が勃興した時代であるとともに、新興宗教が勃興した時代でもあるが、その新興宗教の普及には女が大きな働きをした。親鸞と日蓮の周囲には大勢の女たちがとりまいていたのであるが、その女たちが教えを広げるのに大きな役割を果たした。じっさい親鸞も日蓮も、女性に対してたいへん気を使っていた。親鸞には生来の女好きの傾向が指摘されるので、親鸞と女たちとの結びつきには特殊な動機も感じられるが、日蓮の場合には、そうした不純な動機は感じられず、ひたすら法華経の女人成仏説を説き、それが女性たちの心をとらえたのだと思われる。つまり、武士の勃興を通じて男性原理が高まる一方で、女性原理のほうも、社会の底辺にわだかまり続けていたといってよい。

男性原理が女性原理を抑えて、社会の基本的なエンジンとなるのは、徳川時代に入ってからのことである。嫁入り痕が庶民レベルでも普及し、女は家に従属する存在となった。その家は男によって所有されていたわけであるから、女は男の所有物のような存在となったわけである。それでも、徳川時代に女が完全に男の支配下に忍従したというわけでもない。女は、婚家においても一定の自由を享受していたようである。それは、女が自分自身の財産権をもっていて、それを自分の意志で処分できたことに基いている。だから、持参金は女にとって自由を担保するものであり、それが持参できないのは、まともな結婚ができないということを意味する。荒井白石は、娘のために相当の持参金を用意できず、そのため娘に結婚させてやることができないと言って嘆いたといわれるが、それは徳川時代におけるドライな男女関係を反映したものであろう。

そんなわけだから、徳川時代においても、女が男に全面的に屈服していたわけではない。女が男に完全に屈服する体制が作られたのは、明治以降のことである。明治政府は日本の近代化のためだといって、さまざまな政策を推進したが、その一つとして、男性支配の確立ということがあった。日本に限らず、いわゆる先進諸国は、いずこも男性原理によって動いている。それにはいろいろなわけがあると思われるが、やはり男性原理が近代国家をまとめるために有利な働きをするからであろう。





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