全身小説家:井上光晴の晩年を追う

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原一男の1994年の映画「全身小説家」は、作家井上光晴の晩年に肉薄したドキュメンタリー作品である。原はこの作品の制作に5年間を費やしたというが、なぜ一映画人としてそこまでの執念を以て井上を追いかけ続けたのか。井上といえば、虚言癖や奇行で知られ、前代未聞のユニークな作家として変な名声があったので、それに惹かれたのかもしれない。たしかにこの映画は、井上のグロテスクな部分を包み隠さずさらけだしている。それを見て井上に敬意を感じることはむつかしいであろう。井上本人としても、自分の姿があからさまに暴かれることには抵抗があるのではないか。だがそう感じるのは、小生のようなお人よしくらいなもので、井上本人はかえってそれを楽しんでいる風情がある。とにかく不可思議な人物をとりあげた不思議な作品である。

画面は、大勢の支持者を前にして舞台で猥褻な裸踊りを披露する井上の表情を映し出すことから始まり、重症がんの宣告を下され、やがて死んでいくまでの数年間を追っている。冒頭の裸踊りのシーンは井上63歳のときのことで、死んだのは66歳のときだから、画面がリアルタイムで追うのは、晩年三年間の井上の姿である。その合間に、井上による過去の回想がはさまる。その回想の中で井上は、自分は満州に生まれて、四歳の時に母親に捨てられ、日本に戻ってからは辛酸を舐めながら生きてきたという。また、故郷の佐世保での初恋の思い出なども語られる。しかしそうした井上の話はすべて作り話で現実のことではなかったと、アナウンスされる。井上は自分自身を「嘘つきみっちゃん」と言っていたそうで、かなりの虚言癖があったらしいが、それを恥じる様子は全くない。作家にとって虚構と現実との間の壁はないに等しいのだ。

リアルタイムの場面では、かれが組織した文学塾の生徒との交流とか、数少ない友人との交流が描かれる。井上の生徒のうち多くの女性が井上に恋心を抱いたそうだが、じっさい井上には女たらしのところがあったらしい。井上に口説かれると、たいていの女は落ちてしまうようようなのだ。そのことに友人の埴谷雄高が触れて、井上は女たらしの三割バッターだといっている。十人にモーションをかけて、そのうち三人以上はものにするというのだ。野球でも三割を打てば好打者といえる。井上は女の心をとらえる好打者だったというわけである。瀬戸内寂聴も、そんな井上に打たれた一人だ。最初はセックス相手を務めていたが、そのうちセックス抜きで付き合うようになった。男と女がセックス抜きで付き合うというのは大変なことだ。その大変なことを寂聴と井上は実現したわけだから、日本という国の歴史において稀有な存在を誇ることができる、そんな寂聴の思いが伝わってくるように作られている、寂聴はその思いをなんと井上の告別式の席上で披露するのだ。

井上には正妻がいて、それが画面を見るかぎり、実にまめに井上に尽くしている。こんな女房がいたら、どんな男でも、安心してわがままを貫くことができる。この映画の魅力の大部分は、井上本人より細君の存在に負うところが多い。その細君が晩年の井上を支える。とくにガンの治療にできるかぎりかかわる。井上は、なんだかんだと強気なことを言って、

おれは自分の病気にグズグズこだわったりはしないなどと言うのだが、そう言っている先から、自分の不運を嘆いているのだ。かれの生への執着は並大抵のものではなく、なんとかして少しでも生き延びたいという執念が伝わってくる。その執念から、むつかしい手術も進んで受ける。肝臓の半分を取り出す手術を受けた時には、腹を大きく引き裂かれ、切り取られた肝臓を外につまみ出される。それはまるで、豚の解体を見ているような感じだ。

さすがの井上も、腹を解体されては、かたなしというところだろう。

この映画を見て強く感じたのは、井上は天性のエンターテナーということだ。冒頭の裸踊りはそうしたサービス精神の表れだし、折に触れて、他者を楽しませることを考えている。彼の悪名高い虚言癖もそのサービス精神に出たものだろう。そう思えば、あまり憎めない気になる。井上自身、真実は嘘で守るものだと言っているが、その真実がどのような内容のものだったかは、ついに明かすことはなかった。井上が死んだとき、一つの時代が終わったという思いを多くの人に抱かせたそうだが、それは井上が、日本の近代史を一身を以て体現していたからだろう。






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