自然と自由:柄谷行人「トランスクリティーク」より

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柄谷が自然と自由に関する議論を持ちだすのは、革命をどう考えるべきかという問題意識に促されてのことである。史的唯物論の「常識」によれば、革命は自然必然性にもとづくものであって、したがってそこに人間の自由な選択の入る余地はない。というのも、必然性と自由とは相容れない対立関係にあると考えられているからだ。ところが柄谷は、自然必然性と自由とは相容れないものではなく、同時に成り立つと考える。そう考えれば、革命について人間の自由な選択を議論することができる。革命はあくまでも人間の主体的な行為であって、それは自由な意思に支えられていなければならない、というのが柄谷の基本的な考えである。

自然必然性と自由とが両立可能であることを、柄谷は、カントのアンチノミーについての議論をもとに証明する。カントのアンチノミーは四つあるが、そのうち第三のものが、自然必然性と自由をめぐるものである。それは次のように定式化される。
  正命題~自然法則に従う原因性は、世界の現象がすべてそれから導来せられ得る唯一の原因性ではない。現象を説明するためには、そのほかになお自由による原因性を想定する必要がある、
  反対命題~およそ自由というものは存在しない。世界における一切のものは自然法則によってのみ生起する(純粋理性批判)

このアンチノミーについてのカント自身の解決は次のようなものである。第一と第二のアンチノミーが、ともに偽の命題なのに対して、この第三のアンチノミーはともに真の命題である。だから両立する。その理由は、この対立が視点の相違からきているからだ。その視点の相違を柄谷は、「括弧入れ」という言葉で補強する。「括弧入れ」というのは、超越論的な立場からものごとを見るということで、さまざまな要素からなる現象について、その一つの要素に専ら着目して、ほかの要素を考慮に入れないということである。自然必然性と自由については、「正命題は自然必然性を括弧に入れて行為を見ることであり、反対命題は人々が自由だと思うことを括弧に入れて行為の因果性を見ることだ。だから、それらは両立するのである」というのである。

以上の議論は極めて思弁的に聞こえる。もっと実践に即して考えれば、つまり個人が直面する現実的な事態を考慮に入れれば、次のようになるだろう。われわれはさまざまな制約のもとで行為しており、どんな行為も原因によって規定されている。だから、大局的に見れば、人間には自由などないということになる。そうではあるが、そうした言い方は、事後的な視点からのものであって、いままさに判断を迫られている個人にとっては、自分の行為に責任を持つという意味での自由がある。自由に基づかない行為は、人間的なものとは言えない。だからこそ、犯罪者について、(やむを得ぬ事情があったというかたちで)色々な事情を考慮しても、はやり行為についての責任は問われる。なぜなら、かれにはそうしないことを選択する自由があったからだ。そのことを柄谷は、次のように説明している。「彼に事実上自由はなかった。にもかかわらず、自由であるとみなされなければならない。これは『実践的な』観点である」

こう抑えたうえで柄谷は、自由の本質について突っ込んだ言い方をする。カントは、自由とは自律的なものであり、自分の意志で決断することである。その場合、その自由な決断は、(共同体を含めて)外部から課される義務ではなく、自分自身の内部から発せられる命令に従うことである。その命令は、「自由であれ」という命題であらわされる。これは自由を自由そのものによって基礎づけるもののように聞こえる。しかし自由とはそういうものなのだ。それは柄谷によれば、「自由が『自由であれ』という義務以外のところから生じない(不可能である)という意味にすぎない」

自然必然性と自由とに関する以上の議論を柄谷は革命論に適用するわけである。革命は、資本主義の内部的な矛盾に規定されて生じる限りでは、自然必然的な事象といえるかもしれない。しかし革命を起こすのは人間であって、その人間には自由な意思がある。人間はその自由な意思に基づいて革命を起こすよう決断する。そこに革命をめぐる「実践的な」観点がある。

こういうことで柄谷は、革命をめぐる自然必然性と人間的自由との両立を図っているように見えるが、実際にかれが重視しているのは自由のほうである。それは、史的唯物論の「常識」への反発がなさしめている。史的唯物論の「常識」は、革命の自然必然性を重視するあまり、人間的な自由を軽視あるいは無視する弊害に陥った、と柄谷は考え、それに対抗するあまり、自由の過度の強調というスタンスに傾いたのだろうと思う。

柄谷は、自由の問題を考える際に、その前提として、一般性と普遍性の区別について議論している。一般性というのは、経験的な概念であって、あくまでも蓋然的なものである。したがって絶対的でかつ永遠というわけにはいかない。それは対象となる集団に応じて異なった形をとる。ところが普遍性というのは、絶対的で永遠の真理からなる。それは、人間である限りすべての人に適用できるものであり、また、人間が存在し続けるかぎり永遠の未来まで通用する概念である。真に自由な決断とは、そうした普遍性に支えられているものでなければならない、と柄谷は考える。そういう考えは、カントの理想主義的な面を踏まえている。そういう意味では、柄谷はカント主義者であり、そういう立場からマルクスをカント的に読み直しているといえるわけである。

なお、必然性と自由についての議論のついでに、柄谷は、現代哲学の主要な潮流も、カントがアンチノミーとして語った事柄の変奏にすぎないと言っている。柄谷によれば、実存主義は自由をもっぱら強調し、それに対して構造主義は自然必然性としての制度を強調する。どちらも、カントのアンチノミーの片棒を担いでいるに過ぎない。ポスト構造主義が、構造主義を踏まえながら、道徳の問題を重視したのは、カントのアンチノミーを両立させようとする試みだということになる。要するに、「われわれは括弧に入れると同時に、括弧をはずすことを知っていなければならないのだ」。括弧に入れるとは、視点を絞るということである。視点を絞ることで、より明瞭に見えてくるものと、見えなくなるものがある、ということを忘れないでいることが必要だというのである。






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