新宿泥棒日記:大島渚の映画

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大島渚の1969年の映画「新宿泥棒日記」は、大島一流の悪ふざけ精神が横溢している作品だ。大島はその悪ふざけを、唐十郎とか横尾忠則といった素人俳優と組んでやってのけた。唐十郎は新宿で路上演劇を主催するものとして、横尾忠則は新宿紀伊国屋書店で万引きを繰り返す青年として出てきて、皆でセックスの意義を考えあうといった趣向の映画だ。それに、当時まだくすぶっていた反抗的な時代精神が背景として表現される。新宿は、1968年の全共闘による街頭暴動の舞台となったところだ。

その全共闘の連中が、ヘルメットをかぶった田吾作として描かれる。一方、横尾にセックスの意義を講義する連中は、分別臭い田吾作として描かれる。田吾作チックなイメージは唐十郎も横尾忠則も共有している。かれらは、子どもの図体を大きくしたようななりで、しかも妙に分別臭いところが田吾作チックなのである。なにしろ、ラストシーンは、横尾が女とセックスするところを映し出すのだが、それを横尾と女は分別臭い議論をしながら、セックスに励むのである。

横尾がセックスについて説教されるようになったわけは、女を喜ばす能力を持たなかったからだ。横尾は紀伊国屋で万引きしいているところを、女につかまるのだが、女は紀伊国屋の店員でも関係者でもなく、横尾が気に入って、仲良くなるきっかけとして、万引きの現場を押さえたのだ。横尾は、女の期待に応えてセックスの相手になってやるが、どういうわけか、女は全く感じない。それでは困る、というわけで、二人そろって精神分析医に相談する。分析医はわけの分からぬことをいって、二人に完全な性欲を付与しようとするが、言葉で説明されただけではわからない。やはり実地経験を積むほかなない。というわけで、女は複数の中年男たちによってセックスの実技を体験させられるのである。そのことを女は怒らない。かえって勉強だと思うのである。

一方唐十郎のほうは、仲間とともに、新宿花園神社の近くに小屋掛けをし、そこで前衛演劇を公演する。それにどういう訳か、横尾が由比正雪役として出演する。だがこの芝居は、ほとんど意味不明で、なにがどうなっているのかさっぱり見当がつかない。見当がつかないのは、映画全体についても言えることで、大島はこの映画で何を表現したかったのか、全く見当がつかないのである。もっとも悪ふざけに見当もなにもあったものではないが。

横尾が幼いイメージを感じさせる。横尾は、晩年の寂聴尼に気に入られていたというが、それは横尾のイケメンに尼がほれ込んだからだという。この映画で見る限り、横尾をイケメンと感じる女性はいないのではないか。






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