伝奇集:ホルヘ・ルイス・ボルヘスの短編小説集

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アルゼンチンは、ラテンアメリカ諸国のなかでは、メキシコと並んで文学が盛んな国といわれる。その文学的な伝統は幻想文学と表現され、それをホルヘ・ルイス・ボルヘスが代表しているとされる。1944年に出版した「伝奇集」はかれの代表作である。これは短編小説を集めたものだが、かれは、文学者としては、短編小説の作者であって、長編小説は一つも書いていない。だからこれを読めば、ボルヘスの作風は一応納得できるといわれているのだが、小生が読んだ限り、これを「幻想文学」と定義するのは適当でないように思われる。

「幻想」というのは、現実から遊離した架空の想念あるいは表象のことである。そこで他人の幻想を見たり聞かされたりすると、現実にはありえない、夢のごときものを連想する。夢と幻想とは厳密には異なったものだが、現実でないという点では共通している。しかし、ボルヘスのこの「伝奇集」は、かならずしも夢のごとき非現実的なものではない。語られている事柄は、現実に根差したものだし、またそれなりに論理の筋が通っている。たしかに読者の意表をつくところはあるが、それは幻想的というよりは、知的ないたずらのように思える。それが人の意表を突くのは、高度なゲーム感覚があふれているからだ。ゲームの面白さは、それが人の意表を突く度合いに基いている。そうした意味での意外さを、この「伝奇集」に収められた作品群は持っているのである。

相互に脈絡のない小話が、大きく二つの群に分類され、それぞれについて数編の小話が割り当てられる。第一の群は「八岐の園」と題され、第二の群が「工匠集」と題されているが、タイトルとそこに収められた小話との間にはほとんど有意な関連はない。どちらも、高度に知的な話題を極めて技巧的な語り口によって語った作品ばかりである。架空の歴史的人物についての懐古的な批評とか、広く人口に膾炙した言葉の思いもかけない再定義とかいったものからなっている。

どの小話にも、これといったストーリーはない。あるのは、作者の独特の世界観が込められた饒舌である。この作品全体は、ボルヘスの饒舌の産物なのである。ボルヘスは基本的にはストーリーテラーではない。饒舌の吐き手なのだ。読者はただただかれの饒舌を聞かされる。だが決して不愉快ではない。愉快でもないのだが、読んで損したとまでは言えない。得したともいえないのだが。

先ほども言及したように、小話相互には何の関連もない。だが共通するある雰囲気がただよっていることは感じられる。その雰囲気は、ボルヘス独自の世界観から醸し出されるものだ。その世界観というか、ボルヘスの物の見方とか判断基準はかなりユニークなものだ。例をあげれば、死生観とか人種についての固定観念といったものだ。ボルヘスは、東洋的な輪廻の考えを自分の信念の一部として取り入れているようだ。ボルヘスの世界観には、すべてのものが繰り返されるという主張が含まれている。ニーチェなら永遠回帰と言ったところだが、ボルヘスはニーチェの名を引用することがない。かれが好んで引用するのはショーパンハウアーである。ショーペンハウアーを小生は読んだことがないが、ニーチェに強い影響を与えたといわれるから、もしかして永遠回帰の思想も抱いていたのかもしれない。

人種については、ボルヘスはユダヤ人にかなり拘っているように見える。この「伝奇集」の中のいくつかの小話にはユダヤ人が登場して、それについてボルヘスが例の饒舌を振るっている。そこで小生は、ボルヘスはもしかしてユダヤ人と深いかかわりがあるのではないかと疑い、かれの出自を調べたところ、たしかに父親の血にユダヤ人の血が流れていることがわかった。ボルヘスというのは、「市民」という意味であり、都市部の谷間に生きたユダヤ人にはふさわしい名といってよい。

ボルヘス自身は、ユダヤ系の父親の、比較的知的で裕福な家庭で育った。アルゼンチンでは、上流とまではいかぬまでも、かなりステータスの高い家柄といってよい。ヨーロッパにも、ステータスの高いユダヤ人はいたが、ラテンアメリカでは、ユダヤ人はより自立度が高く、したがって上流階層にのぼることもたやすかったのではないか。

そんな出自もあって、ボルヘスは政治的には保守的であった。ラテンアメリカの作家のほとんどは、ガルシア=マルケスを筆頭にかなり左翼的なのだが、その中にあってボルヘスは右の筆頭格にあげられるのではないか。かれも政治的な迫害をこうむったことがあるが、かれを迫害したのは左派よりのポピュリスト、ペロンであった。ボルヘスはペロンを嫌悪する一方、隣国のチリで、ピノチェットが社会主義者のアジェンデを倒した時には拍手喝采したものだ。かれはそのピノチェットから勲章をもらっている。

そんなわけで、保守的な心情を持ち、政治的には右寄りで、エリート意識が高かった。自分を白人として自己認識し、インディオに理解を示した形跡はない。そんなかれの業績は、エリート意識を反映した高度に貴族的な雰囲気のエッセイー類にあるといってよい。長編小説を一つも書いていないこともあり、かれを本格的な文学作家とみなすのはむつかしいのではないか。





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