飼育:大島渚の映画

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大島渚の1961年の映画「飼育」は、大江健三郎の初期の代表作である同名の短編小説を映画化したもの。この小説は、四国の山中に不時着した米軍の黒人パイロットを、近隣の部落の住民たちが監禁する様子を描いたもので、大江の分身と思われる十歳の少年の視線から描かれていた。それを大島は、かなり大胆に読み替えて脚色した。そのため、原作の雰囲気とはだいぶ異なった印象のものになっている。

原作の読み方はいろいろあるが、十歳の少年の視線の上に成り立っているということもあり、突如現前した戦争の暴力とか、少年と黒人兵との人間的な触れ合いとか、大江なりのヒューマニズムが込められていることは明らかだと思われる。ところが大島は、そうしたヒューマンな要素をほとんど削ぎ落して、捕虜を「飼育」する村人たちの愚かな人間性を仮借なく批判しているのである。じっさいこの映画は、原作で少年が果たしていた役割をほとんど無視して、村人たちによる捕虜の虐待とか、村人同士のいさかいを延々と描く。それを見せられると、日本人というのは、すくなくともこの映画に出てくるようなへき地の住人は、救いようもないほど愚かな人間だと感じられる。大島には、同胞の日本人を嫌悪するようなところがあり、その嫌悪感が、ある種の反日映画といえる「戦場のクリスマス」といった作品に結晶したわけだが、そうした日本人への嫌悪感が、この映画からも伝わってくる。

最大の見どころは、村人たちが、自分たちの犯したさまざまな不都合の責任をすべて捕虜の黒人(かれらはそれを"クロンボ"と呼んでいる)に押し付けるところだ。その挙句、皆でよってたかって黒人を虐殺する。しかもその責任を、徴兵忌避をして逃げていた青年におしつける。その青年もまた、村人の一人によって殺されていたのである。徴兵忌避した男であれば、それくらいの汚名を付け加えても大したことはないだろうという理屈である。そのうえで、不都合なことは何もなかったことにしようと、村全体で確認するのである。

黒人を殺したすぐあとに、村人は敗戦を知る。米軍がこの村にもやってきて、捕虜の殺害について捜査するだろうとの予感が村人の間に広まる。だが、なんとか切り抜けることができるだろう、と村人は妙に楽天的なのである。なにしろ米兵を殺したことになんらの疚しさも抱いていないのである。そんな村人を大島は、日本人の典型的タイプだと言いたいようである。






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