絵の中のぼくの村:東陽一

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東陽一の1996年の映画「絵の中のぼくの村」は、絵本作家田島征三の少年時代を回想した自伝的エッセーを映画化した作品。田島は双子の弟で、少年時代は父親の郷里土佐の田舎で暮らした。清流があるところからして、四万十川の流域かもしれない。とにかく、土佐の田舎ののんびりとした自然の中での、ゆったりとした時間の流れを描いている。

この映画を小生は封切り直後に中野の小劇場で見たのだったが、その折には、豊かな自然の中で確実に成長していく少年たちの日々が、情緒たっぷりに描かれていることに感心したものだった。とくに、清流の中を自由に泳ぎ回る双子の少年たちの真剣なまなざしが印象深かった。そのようなゆったりとした時間の流れが、極端ともいえるような長回しのカメラワークを通じて伝わってくるように作られている、と感じたものだ。

四半世紀ぶりに見返して、これまで気に留めていなかったところに気が付いた。単に少年たちの生長を描くだけではなく、差別とかいじめといった社会的な視点を強く感じさせたのだ。千次という少年は、双子に魚の取り方や角笛の吹き方を教えてくれ、少年たちの敬愛の的なのだが、どういうわけか担任教師に毛嫌いされ、ことあるごとに理不尽な仕打ちを受ける。しかも、少年たちの母親までが、千次と付き合うことを禁止する。そういうところを見せられるとピンとくるものがある。千次という少年はおそらく被差別部落の出身なのであろう。それがゆえに、教師や双子の母親を含め地域社会から疎外されているのではないか、というふうに感じさせるのである。

もう一人、初美という少女が出てきて、これは学校の同級生からいじめられるのであるが、その理由は彼女の家の貧しさにあるようである。彼女は、千次のようには露骨な差別の対象にはならないが、貧しさゆえに、たとえば裸足で通学することをほかの子どもにみとがめられていじめられる。そういう場面を見ると、日本の子供社会の残酷さを思い知らされる。日本人は子どもの頃から弱いものをいじめながら育ち、大人になっても弱い者いじめが好きな冷酷な人間になるのであろう。

映画であるから、エッセーにはない工夫もある。たとえば、マクベスの老婆たちを思わせる三人の老婆が出てきて、子どもたちの運命を予言したりする。また妖怪めいたものも登場する。双子の兄弟といえば、これは人間の子どもなのだが、オランウータンのような顔つきをしている。だから彼等には森の中が似合うのである。

ハイライトは双子の兄弟と千次との永久の別れの場面。千次はすでに学校に来なくなっていたが、ある日を最後に地域社会から完全に姿を消した。その千次のことを地域社会の人々は、あたかも最初から存在していなかったようにあしらっている。つまり千次は、地域社会にとってけがれ以外のものではなかったという冷徹な現実を、そのことによってあらわしているのである。

こういうわけでこの映画は、かなり社会的な視線を感じさせる作品である。原作がそうなのか、それとも東がそのように脚色したのか。いずれにしても、色々と考えさせる映画である。

なお、母親を演じた原田美枝子がなかなかよい。冒頭近くの部分で、子どもたちの手前をはばかりながら夫との久々のセックスを楽しみ、快楽のあまりよがり声をあげてしまうところとか、息子と一緒に風呂に入りながら性教育を施すところなど、平凡ながらもけなげに振る舞う母親を演じている。





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