十地経を読むその十一:第十かぎりない法の雲のような菩薩の地

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菩薩の十地のうち最後の地である第十地は、いよいよ菩薩から仏へと飛躍すべき段階である。それをお経は、「仏になるべく勧請をさずけられた」と表現する。その勧請にこたえて、仏に必要な知力を円満にするとき、「正しく菩提をさとった仏」という名号で呼ばれるのである。

仏となるに必要な知力は「十種の不思議な知力」と呼ばれ、以下に列挙されるのであるが、かならずしも十という数には一致しない。ここで十という数をあげているのは、このお経の癖であって、ここでは数が多いという意味に受け取ってよい。その不思議な知力とは以下のごときものである。

あらゆる存在をあらしめる存在性以下さまざまなる存在を完全に識別して体得することを正知して、あるがままに如実にさとること。あらゆる衆生の身体を不思議に化作することをあるがままにさとること。あらゆる仏の不思議な加護をあるがままに如実にさとること。さまざまなはたらきを体得する玄妙な知(微細知)をあるがままに如実にさとること。諸仏の秘密の真理をあるがままに如実にさとること。諸如来のもとなるさまざまな劫のあいだの相互交入の知をあるがままに如実にさとること。すなわち、一劫に無数劫がはいること、無数劫に一劫がはいること、有数劫に無数劫がはいること、無数劫に有数劫がはいること、瞬間に劫がはいること等々をさとることである。また、諸仏のさまざまに化現する知をあるがままに如実にさとることも加えられる。

このような知を深めることによって、「不思議」と名付けられる菩薩の自由な解脱が体得される。かくして、この地にある菩薩は、「十方にいますさいわいなる諸仏のもとにて、一瞬のごくわずかのあいだに、無量無辺のかぎりない法の雨雲~かぎりない法を現前させ、かぎりない法を照明する~を受ける力があり、受けんと願い、受けてわがものとし、受けていつまでも堪えている・・・それゆえにこそ、ここなる地が、『かぎりない法の雲のような』と言われるのである」

この地にある菩薩は、「自らの誓願力の根源からして、かぎりない慈悲と憐憫の雲をまき起す」不思議な知の自由自在力を体現しており、かぎりない知の神通力も融通無礙になっている。そこにおいて、「(1)如意なるままに、煩悩に垢れた世界を変じてあますところなく清浄なものにすることも、自由自在である。(2)如意なるままに、狭小な世界を変じて広大にすることも、自由自在である・・・あらゆる世界を、無限に多様なしかたで実現することも、自由自在である。(3)如意なるままに、一つの原子の微粒子の中に一つの世界をそっくりそのまま、まわりをとりまく鉄囲山もろとも入れてしまうことも、自由自在である・・・如意なるままに、一つの世界にあらわれているかぎりの衆生の存在を、もはや言葉ではいえないほど無数の世界においてあらわし示す。そうしたからといって、衆生を苦悩させるわけではない・・・」等々。

「かくして心が生ずるごと、心が生ずるごとに、十方にわたっていっぱいにひろがっていく。心の瞬間ごと、心の瞬間ごとに、無量無辺の、もっともすぐれた菩提をさとり、乃至大涅槃に入滅するまでのさまざまな美をあらわし示すことも、自由自在である」

このように金剛蔵菩薩が説き終わったときに、解脱月菩薩が、居合せたひとびとの気持ちを代弁して次のように語り掛ける。ここなる人々の疑惑の心を断ち切るために、菩薩の美しさに満ちた神変をあらわし示していただきたいと。

そこで金剛蔵菩薩は、「あらゆる仏国土がそのまま身体の本体であることをあらわし示す」という名の三昧に入定する。するとその場に居合わせたすべての菩薩や諸天らの聴衆達は、自分自身が金剛蔵菩薩の身体の中にはいっていることを知る。そして、そこにおいて仏国土が実現していることを知るのである。

この地にある菩薩は、大自在天なる天王と呼ばれるが、それは「如来と不二にして一なる身体と言葉と心がある」ような、かぎりなく仏の境地に近いあり方なのである。





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