木村幹「韓国現代史」を読む

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木村幹の「韓国現代史」(中公新書)は、戦後韓国の大統領になった李承晩、尹潽善、朴正煕、金泳三、金大中、李明博に焦点をあて、かれらの生き方とからませながら戦後韓国政治の動きを分析したものである。政治史の叙述には、社会のダイナミズムに焦点をあてる客観的な叙述と、政治家個人の野心に焦点をあてる主観的なやり方とが、両極端にあるが、この本は主観的なやり方の極端なものといえる。あまりにも、政治家個人の野心の解明にのめりこんでいるおかげで、かれらの野心は彼らの個性に解消され、時代の抱えていた社会的な条件は無視されがちだ。したがって読者は、この本を読むことで、政治家個人の個性の一端はかいまみることはできるが、韓国政治を動かしてきたダイナミックな社会的条件については、あまり理解を深めることはない。

以上の六人のほかにも、大統領になったものはいるが、それらは全斗煥や盧泰愚のように 朴正煕軍事政権の亜流であったり、崔圭夏のように政権と政権とのつなぎ役であったりして、たいした存在意義をもつわけではないという理由でカットされている。

韓国の現代史といえば、アジア太平洋戦争の結果日本が降伏して朝鮮半島が日本の統治から解放されたことに始まる。韓国にとって不幸だったのは、その開放が即独立には繋がらず、北半分はソ連に、南半分をアメリカに占領統治されたことだ。その分断は、米ソ冷戦を反映したものであり、その冷戦の一環として、朝鮮戦争が起こった。そんなこともあって朝鮮半島は、いまだに統一されておらず、また、南においては、激しい地域対立が続いた。光州事件などは、ある意味、地域対立の象徴のようなものだった。

そんなわけで、戦後の朝鮮半島の政治は、非常にシビアな問題を多く抱えているのであるが、この本は、そうした問題をほとんど棚上げにするかたちで、ひたすら戦後韓国の大統領に就任した政治家たちの個人的な野心を追い続けるのである。そんなものを読んでも、歴史を推理小説のように楽しむといった人々を別にすれば、韓国の歴史についてなにかしら有益な効用を得る人はないであろう。しかも、著者が対象としているのは、朝鮮半島の南部を支配した政治家達だけであって、北の政治家とか政治システムについては度外視されている。それでは、韓国の現代史をリアルに見ることはできないであろう。朝鮮半島は、韓国だけではないのだし、またその韓国の国内事情にしても、北を無視しては語れないはずだ。

そうした近視眼的な見方は、韓国現代史の認識を極めて偏頗なものにしている。政治家個人に関心を集中している結果、国をめぐる大局観のようなものが不在になっているのだ。朝鮮半島という単位をともかく棚上げにしても、韓国の政治を突き動かしていた客観的な動きというものがあるはずだ。韓国の政治は、激しい分断と対立に彩られているが、そうした異様ともいえる分断と対立には、韓国特有の歴史的・社会的事情が大きく影を落としている。ところがこの本は、そのような影には一切気が付かないので、韓国現代史は、一部の政治家たちの個人技の繰り返しだったということになる。

日本にも、いくつかの政治勢力の対立というものはあったが、それによって国が分断され、それこそ内戦といってよいような状態に発展することはなかった。そういう意味では、どううにか国としての一体性が保たれてきた。ところが韓国では、大統領が在職中に暗殺されたり、辞任後は後継政権によって犯罪者として訴追されたりと、醜い政争が繰り返されてきた。醜いというより、阿呆のわざといってよい。 朴正煕が暗殺されたのは仲間内の喧嘩からだったというし、全斗煥が死刑判決を受けたのは、かれの仮借ない弾圧によってひどい目にあわされた連中の復讐心によるものだった。これは、私憤と公憤の区別が、韓国ではついていない証拠で、政治的な幼稚さを物語っている。

とにかく韓国現代史は、対立と分断の歴史だったといってよい。その場合なにがその対立をもたらしたのかが問題になる。小生などは、韓国社会を対立・分断させているのは、よくいわれるようなイデオロギーではなく、実質的な利害関心だったと思う。それは具体的には、買弁派と民族派の対立となってあらわれた。買弁派というのは、韓国社会を実質的に切り回している勢力で、日本統治時代には親日派として買弁的な振る舞いをし、戦後はアメリカに深く依存し、アメリカの威を借りて生きていこうとする姿勢を生んだ。それに対して民族派は、とりあえずは南北統一とか、自主独立とかを主張する。当面の敵が買弁勢力であるから、反対党はいきおい民族派にならざるを得ないという事情もあるだろうが、韓国が買弁派の勢力と、民族派の勢力に分断されていることは、明々白々の事実だと思う。

ところがこの本は、そうした明々白々の事実が目に入らないらしく、ただひたすら、政治家個人の野心に関心を集中させている。政治家の野心に、社会の客観情勢が反映することは無論あるわけだが、この本には、そうした客観的な情勢への配慮は全くないに等しい。実に能天気な韓国現代史といわざるをえまい。著者は、社会情勢へ言及する文脈の中で、「世界日報」の記事を援用しているが、「世界日報」とは、かの統一教会のプロパガンダメディアである。そうしたものに、情報源を求めるという姿勢には、学者として問題を感じざるをえない。





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