中論を読むその八:火と薪との考察

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中論第九章「過去の存在の考察」及び第十章「火と薪との考察」は、第八章「行為と行為主体との考察」における議論のバリエーションみたいなものである。第九章では、「見るはたらき・聞くはたらき・感受作用」などについて、それらのはたらきそのものとその働きの主体との関係について論じられ、第十章でははたらきとしての火とその主体あるいは担い手としての薪との関係について考察される。

まず、感覚作用そのものとそのはたらきの主体について。説一切有部は、見るはたらきとそのはたらきの主体は別のものであり、まず、主体があって、見るはたらき等をなすと考える。それに対してナーガールジュナは反論を加え、見るはたらき等より先には何ものも存在しないという。つまり見るはたらきとその主体とは、それぞれ別のものと考えることはできない。もし別のものと考えれば、見る主体、聞く主体、感受する主体が、それぞれのはたらきよりも先に存在するということになるが、「見る主体と聞く主体と感受する主体とが、それぞれ異なったものであるならば、見る主体があるときに(別の)聞く主体があるということになろう。そうだとするとアートマン(主体)は多数あることになってしまう。

このような理屈で、見るはたらき等より前に、そのはたらきの主体が存在するという説が退けられる。ということは、見る主体とそのはたらきとは一体のものであるのか。この問いについては、本章では踏み込まれず、次章の「火と薪との考察」の部分で立ち入って触れられる。

第十章は次のような文章で始まる。「もしも、『薪がすなわち火である』というのであれば、行為主体と行為とは一体であるということになろう。またもしも『火と薪とは異なる』というのであれば、薪を離れて火があるということになろう」

これについて本章は、火と薪とは別のものではないとまず言う。火と薪が別のものであれば、火は燃える原因をほかにもたず、自分自身で燃え続けるのであり、したがって永遠に燃えることになってしまう、というのがとりあえずの理由である。そのうえで、「もしも火と薪との両者が互いに離れた別のものであるとしたならば、薪とは異なる別のものである火が、欲するがままに、薪に至るであろう」と言う。だから、火と薪が別のものであることは不自然だと言いたいようなのだが、なぜ不自然なのか、説得力ある説明はない。

では、火と薪は一体のものと考えるべきなのか。この問いについても、本章は否定的に答える。火と薪とが一体だというのは、それぞれが別個のものでなく、互いに依存しあっているということであるが、依存しあうためにはすでに成立していなくてはならず、そうだとすると、火と薪とは依存しあう前に別々に存在することになってしまい、不都合なことになる。そんなわけで、火と薪とが一体であるという説も退けられる。火と薪とは、異なった別のものではなく、かといって一体のものでもないというわけである。この事態を、本章は次のように表現している。

「火は薪に依存してあるのではない。火は薪に依存しないであるのではない。薪は火に依存してあるのではない。薪は火に依存してあるのではない」

これは非常に逆説的な言い方である。これを形式論理的にいうと、AはBでもなく非Bでもない、ということになる。論理の勢いから言えば、Bでなければ非Bになるはずだが、そのどちらでもない、かといってそれ以外の第三のものがあるわけでもない。これを称して否定の論理と言われることがある。その否定の論理を西洋の仏教学者の多くは、仏教のニヒリズム的要素として受け取った。

ともあれ、行為とその主体との関係をめぐる議論は、行為主体としてのアートマンをめぐる議論へと発展していく。アートマンとは、自我というような意味である。その自我としてのアートマンが、行為の主体となる。アートマンにかかわる行為のはたらきは、五蘊との関連において語られる。五蘊は執着の原因である。その執着とアートマンとの関係が、火と薪との考察によって説明されるというのである。だから、アートマンとその執着との関係は、アートマンは執着に依存してあるのでもなく、依存しないであるのでもない、ということになる。

説一切有部の説は、アートマンを実体を有するものと考え、もろもろの事物はそれぞれ別異のものと説くのであるが、それはあやまった説であるとナーガールジュナナは主張するのである。





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