一遍聖絵を読む

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一遍聖絵は、成立後京都の歓喜光寺に伝わってきたが、現在は神奈川県藤沢の清浄光寺(通称遊行寺)が所蔵している。全十二巻のうち第七巻は、東京の国立博物館にある。遊行寺のものには、第七巻の後補物が含まれている。東京国立博物館では、全巻をデジタル映像にして、ネットで公開しているので、誰でも見ることができる。一部保存の状態が悪く、文字が判読できない部分があるが、それについては、複写本で補わねばならぬ。岩波文庫から出ている全文のテクストは、複写本を参照しながら足りないところを補なったものである。

時宗の教祖一遍の一代記である。著者の聖戒は一遍の腹違いの弟といわれている。一遍より十歳ほど年少で、一遍の全国布教の旅の大部分に同行した。その折に実際見聞したことが元となっているので、資料的な価値は非常に大きい。だが、叙述のほとんどは、一遍が歩いた土地での出来事を記録したものであり、一遍の宗教的な教えについての記述はあまり見られない。

第一巻は、一遍の出自及び少年時代のことを記し、第二巻は、三人の同行を従えて遊行の旅に出たことが記される。その部分の記述は次のごとくである。「同(文永)十一年二月八日、同行三人あひ具して与州を出で給ふ(超一、超二、念仏坊、此三人発因縁雖有奇特恐繁略之)。瀬戸内寂聴尼はこの記述に想像力を掻き立てられ、一遍と彼女らの交情を一巻の小説に仕立てた(花に問え)。この最初の旅に聖戒は同行していない。桜井の里で一遍等を見送ったとある。一遍等はまづ天王寺、ついで高野山を訪れた。

第三巻は、熊野大権現の神託を得て、他力本願の深意を領解したことを記す。これ以後一遍は、「南無阿弥陀仏決定往生六十万人」と記した札を、人々に配って歩くことを、自分の使命とする。時宗教団では、この熊野における他力本願の領解をもって教団の開宗とする。

第四巻では、備中福岡の市において、地元神職を帰依させたという有名な逸話が記される。また、信濃の善光寺に向かう途中、同国小田切の里で踊念仏を始めたことが記される。その直後、江州守山のほとりで、「おどりて念仏申さるる事けしからず」という反発を受ける。

第五巻では、奥州江刺の里を訪れ、祖父河野通信の墓を拝したことが記される。また、鎌倉に入らんとして役人どもに制止されたことが記される。第六巻では、鎌倉の近郊片瀬での一遍の様子が記される。三月のある日、紫雲がたち花が降ったことがあった。そこで人々が一遍にその故を問うたところ、一遍は次のように答えた。「花のことは花に問へ、紫雲のことは紫雲に問へ、一遍知らず」と。

第七巻以降は、引き続き各地を遊行布教するさまが記される。次第に帰依する者が増え、その数、目録に入る人数だけでも二十五億一千七百廿四人」だと言われる。かく、外面的な事情については詳しいことが記されるが、肝心の宗教上の教えについては、あまり立ち入らない。そんな中で次のような記述がある。「五蘊の中に衆生をやまする病なし、四大の中に衆生をなやます煩悩なし。但、本性の一念にそむきて、五欲を家とし、三毒を食として三悪道の苦患をうくること、自業自得の道理なり。しかあれば、みづから一念発起せずよりほかには、三世諸仏の慈悲も済ふことあたはざるものなり」。

この文章からは、一遍が自力の努力にこだわっていたことがうかがわれる。その点は真宗と異なるところだ。真宗との相違は、死にさいして阿弥陀が来迎してくれるという信念からもうかがえる。一遍の面白いところは、死後の救済を信じていながら、自分の遺体には関心がないことだ。一遍はこう言うのだ。「没後の事は、我門弟におきては葬礼の儀式をととのふべからず。野に捨ててけだものにほどこすべし」と。

一遍は延応元年(1239)に生れ、正応二年(1289)に没したというから、享年満五十歳である。ほぼ同時代の日蓮は六十歳まで生きているから、それと比較しても短い人生といわねばならぬ。やはり遊行生活の過酷な条件が、かれの健康を蝕んだのであろう。日蓮はたびたび権力の迫害を受けたが、信者たちに守られて比較的健全な生活をおくることができた。一遍は、乞食同然の姿で、その日に食うものにも事欠くようなことが多く、いきおい自分の身体をいじめることになったのだと思う。






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