小説「悪霊」の語り口 ドストエフスキーの世界

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小説「悪霊」の語り口は、ドストエフスキーの他の小説とは大分異なっている。ドストエフスキーの初期の小説は、一人称の形式をとるものが多く、中にはある人物の独白とか書簡とかいう形をとるものもあった。「罪と罰」以降の作品は、第三者による客観描写という形をとり、神の視点から地上の出来事を描いているような体裁をとったものが多い。ところがこの「悪霊」は、非常に奇妙な語り口を採用している。一人称による描写と第三者による客観描写が混在しているのである。まず、一人称の部分は、この小説の中の登場人物によって語られている。その人物が、自分が直接見聞したこととして出来事を描いていくのである。その一方で、この人物が直接体験したはずのないことについては、その人物が第三者の立場にたって、起きた出来事を事後的に描写するという形をとる。そんなことが可能なのは、対象となった出来事が犯罪にかかわるものであり、その犯罪の詳細はすでに捜査当局によってあきらかになっているので、自分はその捜査資料などを参考にしながら、事件の詳細を再現しているのだ、というような体裁をとっているからである。

小説の語り手は、すすんで自己紹介することがない。いきなり物語を始める。その物語というのは、基本的にはある人物(ステパン先生)をめぐる出来事にかかわるものであり、語り手はその人物と極めて近い関係にあったので、かれにかかわる出来事を細大漏らさず見聞したということにしている。もう一つの物語は、ある秘密のグループをめぐるものであり、それについて語り手は、かれらの言動の一部については直接見聞したことはあるが、ほとんどは股聞きにすぎないと認めている。そういう部分については、事件後警察が明らかにした捜査資料とか、噂話をもとに再現せざるをえない。だから、それについては、第三者による客観描写の体裁をとることになる。まあ、そんな言い訳をしながら、一人称の語りと第三者的な客観描写を織り交ぜながら、小説を進行させていくのである。

小説のメーン・プロットは、ピョートル・ヴェルホーヴェンスキーを中心とするある秘密結社の活動にからむものである。その結社が仲間を殺し、それにからんで複数の殺人事件がおこるというのがこの小説の中軸的な内容である。その秘密結社をめぐって多数の人物が登場し、それら人物たちが網の目のような人間関係を繰り広げ、それらが壮大な物語を生んでいくのである。語り手は、その結社の構成人物とはだいたい面識があり、なかにはかなり親しく付き合っている者もあるので、かれらの言動の一部は、自分が直接見聞したものとして描写している。しかし、かれらのすべての言動を直接見聞するわけにはいかないので、そういう直接の見聞からもれる部分は、警察の捜査資料や噂などで補わねばならない。そういう部分にかかわる描写は、一人称による描写とは異なり、第三者的な客観描写になっている。

とはいえ、語り手は、折角自分が直に接した人物たちにかかわる物語を語るのであるから、できるだけ、自分が直接見聞きしたことを中心に物語を組み立てたいという意思はもっている。かれがこの小説を、ステパン先生にまつわる話から始めるのは、かれがこのステパン先生の親しい友人であり、かれの一挙手一投足を目撃したからにほかならない。その部分の描写が真に迫って聞こえるのは、自分自身の見聞を語っているからだとわざわざ断っているほどである。

語り手は進んで自己紹介をしないと言ったが、じっさいかれは自ら名前を名乗ることがない。かれの名が知らされるのは、マヴリーキーとの会話の中である。その会話の中でマヴリーキーが彼にむかって父称付きで呼びかける場面がある。そこから読者は語り手の名がアントン・ラヴレンチェヴィッチだと知らされるのである。また、どんな職業についているかも言わない。これについてはリザヴェータが、あなたはステパン先生の個人秘書でしょ、と言っているのが唯一の手掛かりだ。要するに、ステパン先生と常に一緒にいて、ステパン先生とかかわりのある事柄や出来事にはだいたい精通し、ステパン先生を通じて、スタヴローギンとかピョートルとか、問題の秘密結社のメンバーらとも付き合いすることとなった。だから、かれが事件にかかわる出来事を描写する際には、かならずしも純粋な三人称ということにはならず、たえず対象となる人物の表情を思い浮かべながら書いているということになる。

そんなわけだから、この小説の語り口は、一種独特なのである。語り手による一人称の語りの部分は無論、第三者的な語りの部分においても、語り手自身の個人的な意向が強く働いている。この小説はだから、神の目からみた描写というのではなく、一人の生身の人間の体験談としての色彩を強くおびている。直接体験したのではないことも、あたかも自分がなんらかの形で準体験したことを語っているような体裁を持たせているのである。

こういう小説の語り方は、たとえば「カラマーゾフの兄弟」と比較して、著しい対照をなしている。「カラマーゾフの兄弟」は、大勢の登場人物が出てきて、それぞれ思い思いに、自分の言いたいことを勝手に言い合っている。それはともすれば、言いっぱなしになるところだが、微妙な調和を醸し出す。その調和をフォルマリストのバフチーンはポリフォニーと呼び、その概念でドストエフスキーの小説世界全体を特徴づけようとしたわけだが、その概念規定は、「悪霊」の場合にはすっきりと当てはまらないようである。「悪霊」の登場人物たちも、それぞれ勝手なことを言い合ってはいるが、それは、語り手の意識にの中で整理された形で提示される。この小説は、あくまでも一人の個人による語りなので、その個人の意識によって交通整理されたものしか語られないのである。

ところでこの小説は、社会主義をはじめとした、ロシアの新しい思想の動向を批判することに主な目的があった。ところが語り手自身は、ステパン先生のリベラルな傾向に感化されたか、そうした新しい思想の動向に、かならずしも拒絶反応をしめしていない。かえって、リベラルな思想の持ち主に、その思想を大いに語らせている。一方では、シャートフのような人物の口から、ロシア主義的な考えを語らせてもいる。そういう点では、この小説の語り手は、この小説に相応しい役割を果たしているといえよう。






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