風姿花伝を読むその二 物似条々

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風姿花伝第二は「物似条々」と題する。物真似について、それを九種類で代表させ、各々についての心得を説いたものだ。猿楽の芸がもともと物真似から始まったことは父親の観阿弥も認めていることであり、息子の世阿弥もそうした父親の見解を受け継いでいる。後に世阿弥は、物真似よりも幽玄を重んじるようになり、物真似の要素については、女体、軍体、老体に集約されていくのであるが、ここでは九体をあげてみな同じようなウェイトを付している。父観阿弥の影響がまだ色濃く残っていることを感じさせる。

まず冒頭において、「物まねの品々、筆に盡し難し。さりながら、この道の肝要なれば、その品々を、いかにも/\嗜むべし。およそ、何事をも、残さず、よく似せんが本意なり」と書いている。物真似が猿楽の芸の基本だと言っているわけである。その物真似の芸には九体ある。女、老人、直面、物狂、法師、修羅、神、鬼、唐事である。それぞれについて芸の心得について説いている。

女体については、「およそ、女かかり、若き爲手の嗜みに似合ふ事なり」として、若い演者が似合うと言っている。女体の中でも、舞、白拍子、物狂などの女かかりを手本にすべしという。これらはすでに芸能として確立されていたので、それを手本とすべしというのである。曲舞については、観阿弥がこれを能の中に積極的に取り入れたという歴史がある。

老体については、「老人の物まね、この道の奥義なり」としながら、「およそ、能をよきほど極めたる爲手も、老いたる姿は得ぬ人多し」といって、そのむつかしさを強調している。そこで老人を演じながら、観客に花を感じさせるにはどうしたらよいか、それをよくよく考えて演ずべしという。「花はありて、年寄りと見ゆるる公案、詳しく習ふべし。ただ老木に花の咲かんが如し」というのである。

直面とは、面をつけずに素顔で演じることであるが、これが簡単そうに見えて実はむつかしいという。「能の位あがらねば、直面はみられぬものなり」と言って、よほどの工夫がなければならぬと言うのである。その工夫とは、「顔気色をば、いかにもいかにも、己なりに、繕はで直に持つべし」というに尽きる。

物狂については、「この道の、第一の面白盡くの藝能なり。物狂ひの品々多ければ、この一道に得たらん達者は、十方へ亙るべし」と言って、あたかも芸の基本であるかのように扱っている。これは父親観阿弥の芸に物狂いが多く、しかも優れたものが多かったことを踏まえているのだろう。物狂いは女が演じるにふさわしいものだが、その場合、「修羅・闘諍・鬼神などの憑く事、これ、何よりも悪きことなり」という。女物狂いは、憑き物ではなく心の乱れを表現すべきだというわけであろう。観阿弥もすでに「百万」などで、憑き物ではなく心の乱れを演じていたものだ。物狂いはまた、直面では演ずるのが非常にむつかしいという。「直面の物狂ひ、能を極めてならでは、十分にあるまじきなり」というのである。

法師は、上演はまれであるからそんなに稽古することはないといい、修羅は、十分に演じても面白いことは希なので、無暗に演じないほうがよいという。

神は鬼と似ているが、神には威風が備わっているように演じねばならない。「神をば、いかにも、神體によろしきやうに出で立ちて、殊さら、出物にならでは、神と云ふ事はあるまじければ、衣装を飾りて、衣文をつくろひてすべし」という。

鬼については、「これ、殊さら、大和のものなり。一大事なり」と言っている。大和猿楽のうちでもっとも観客に受けたのでもあろう。ただ、「鬼ばかりをよくせん者は、鬼も面白かるまじき道理あるべきか。委しく習うべし。ただ、鬼の面白からん嗜み、巌に花の咲かんが如し」であるから、鬼ばかりを得意とする役者には限界があるという。

唐事については、「これは、およそ、格別の事なれば、定めて稽古すべき形木もなし」といって、あっさりと片づけている。

以上演技の種類である物真似九体について、心得を説いたものであるが、このように物真似を中心にして猿楽を論じるというのは、父親観阿弥の強い影響を受けてのもので、後に独自な幽玄能を完成させた世阿弥にとっては、若いころの過渡的な能楽論という位置づけになろうかと思う。いずれにしてもここでの議論は、観客の存在を強く意識したものになっている。






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