靖国神社は静かな神社たりうるか

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東洋文化研究者のアレックス・カーさんが朝日新聞のインタビューに答えたなかで、靖国神社について言及していた。(10月10日付朝日朝刊)氏は「靖国神社が嫌いではないし、参拝したこともあります」といい、「A級戦犯がまつられていることも私は問題視していません」という。だが、「靖国神社は、あの戦争を肯定するかのような遊就館という施設を作り、政治的な道を選びました」と批判したうえで、もし靖国神社が、伊勢神宮や明治神宮と同じように、沈黙を保ち続けていたら、「総理大臣が言っても誰がいっても」問題にならなかっただろう、靖国神社が政治的な騒ぎにたえず巻き込まれるようになったのは、靖国神社自らが政治的な姿勢を示したからだ、と氏はいう。ということは、靖国神社にも政治化せずに静かな神社としての道を選ぶこともできたのだという認識をしているのだろう。

だが、靖国神社に政治的になることを拒絶する道が残されていたと考えるのは、難しいのではないか。靖国神社は、伊勢神宮のように悠久の昔から存在していたわけではないし、明治神宮のように一人の日本の天皇を祈念するために作られたものでもない。戊辰戦争で死んだ官軍側兵士を弔うために作られたもので、したがってきわめて政治的な意図にもとづいていたわけである。簡単に言えば、天皇を担いで旧幕府勢力と戦った薩長中心の藩閥勢力が、自分たちの士気を高めるために作ったものだ。その後、時代の流れで、日本が対外戦争を重ねるたびに、戦死した膨大な数の軍人を弔う必要が出てきて、靖国神社がその受け皿になった。終戦までは、国家と神道が一体化していたために、国家のために戦死した兵士の霊の受け皿に神社がなり得た事情が、その背後にはある。したがって、靖国神社が、日本の行った戦争を擁護するのは、ある意味当然のことであったわけである。まつられている兵士たちがそのために死んだ戦争を断罪していては、戦死者の霊に対して申し訳が立たない。そう考えるのは当然のことである。

こんなわけであるから、靖国神社に非政治的な姿勢をもとめ、伊勢神宮のような沈黙を期待するのはお門違いといってもよい。靖国神社は、戦争を肯定するように、仕掛けられているのである。遊就館は靖国神社にとって、なくてもすむ非本質的な付属物ではなく、神社と一体となった本質的な部分なのである、と考えるべきである。

こう考えれば、靖国神社をいつまでも戦没者慰霊のための唯一の施設として位置付けることが問題だということがわかる。この点は氏も同意見らしく、千鳥ヶ淵を戦没者慰霊のための国家的施設に位置付けていくことが重要だといっている。今回アメリカのケリーとヘーゲルの両長官が千鳥ヶ淵に行ったが、これは外交的にいえば正しい選択であった。今後も様々な機会を捉えて、次第に千鳥ヶ淵に重心が移行していくようにしたほうがよい。千鳥ヶ淵なら、アメリカのアーリントンと同じような施設だと胸をはっていえる。靖国については、どうころんでも、そうはいえない。


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