アベポリティクスの危険な本性:新たな専制主義の芽

| コメント(0)
安倍晋三という政治家の政治スタイルを特徴付けて、アベポリティクスと筆者は命名し、その特徴は、復古的で反動的な政策ミックスにあると言った。しかしもうひとつ、もっと重要な特徴を付け加えなければならないようだ。それは、専制主義を目指しているということだ。

安倍晋三は、安保法制懇なるものの「提言」を受けたという体裁をとりつくろったうえで、集団的自衛権の行使を容認すべく、憲法解釈を変更したいと、一歩踏み込んだ発言をした。先稿でも述べたとおり、どんなに屁理屈を弄しても、日本国憲法の明文規定から、集団的自衛権を行使できるという解釈は成り立たない。集団的自衛権の行使を、どうしてもしたいのなら、憲法を改正しないかぎりできない相談である。それを、憲法改正の手続きを踏まないで、一総理大臣の解釈変更で対応しようとするのは、憲法の規定より総理大臣の意向を優先させることであり、立憲主義の原則に真っ向から反することである。

それを、行おうとするのであるから、安倍晋三という政治家は、憲法を公然と無視しようとする態度をむき出しにしたと思わざるを得ない。

いまさら言うまでもなく、立憲主義の原理というものは、時の為政者の圧制から国民を守るために、為政者に対する歯止めとしてもうけられた原理である。その原理を反故にするということは、為政者をしばる歯止めがなくなるということであり、国民は、いまやなんらの縛りもなく、勝手気ままに自分の言い分を押し通す為政者の暴虐にさらされるということを意味する。立憲主義の歯止めの利かない為政者は、独裁者というべきであり、独裁者の行う政治は専制政治というほかはない。安倍晋三はどうやら、自分が独裁者になり、専制的な政治を行う心つもりでいる、としか思えない。

政策の過ちが国民にとって不幸な結果をもたらすことは当然だが、統治の仕方が専制主義に基づいた政治はもっと悲惨な結果をもたらす。専制君主のような為政者を抱えていては、もはや主権者としての国民などとはいえない。専制君主に対応するのは、奴隷的境遇の臣民だ。安倍晋三は、自ら専制君主となり、国民を奴隷化するつもりなのであろうか。

しかも、もっと問題なのは、安倍晋三が、もし手にすることができれば、その集団的自衛権を早速行使したいと考えているフシがあることだ。行使の対象は、どうやら中国らしい。中国を相手に日本と一緒になって(集団的自衛権を行使して)戦争をしたいなどと考えている国があるとは、当面は思えないが、しかし、安倍晋三が、集団的自衛権を武器に、中国への挑発を強めることは十分に予想される。その場合に、中国が安倍の好戦的姿勢を口実に、実際の武力行動に踏み切らないともかぎらない。そうなれば、集団的自衛権どころか、日本と中国との全面戦争ということにもつながりかねない。

政治家の役割というものは、いかにして戦争を回避するかに努力することにある。それを、自衛権という法理を振りかざして、あたかも戦争することが(ワールドカップのサッカーゲームのような)愉快なことであるかのように、人々に印象付けることは、政治家として最低・最悪というべきである。

このような政治家をいつまでも日本国の総理大臣にしておくことが、どのような事態をもたらすか、日本国民は、もっと頭を冷やして、よく考えるべきだ。







コメントする

アーカイブ