柄谷行人の現代資本主義論

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柄谷行人は「世界共和国へ」と「憲法の無意識」のなかで彼独自の資本主義論を展開している。独特のフレームワークを用いて、世界経済の発展の傾向と、その帰結としての現代世界経済の本質的なあり方について説明しようとするものだが、彼の最大の特徴は国家を経済の成立基盤と見ることだ。国家は経済が成立する以前から存在し、経済が発展する上での条件となっている。マルクスのいうように、経済が国家を規定するのではなく、国家が経済を規定する、そういう考え方にたって、経済現象を説明しようと言うのが、彼の理論の最大の特徴である。

柄谷の議論の詳細に立ち入ることは、ここでは差し控える。ただ彼が、現代の世界経済の状況、ということは現代資本主義の歴史的な位置づけということになるが、それをどう見ているかについて言及したい。

多くの経済学者たちは、現代の世界経済を、グローバリズムと新自由主義という概念で説明している。そのこと自体は柄谷も否定しない。ただこの連中が、新自由主義やグローバリズムを自由主義の延長だと説明するとき、それは違うと異議を唱える。新自由主義とは自由主義の延長ではなくその否定なのであり、グローバリズムとは諸国家間の自由な競争を意味するわけではなく、一部の資本主義諸国の覇権を求めての戦いなのだとする。そしてそうした事情の根本にあるものとして柄谷は、現代は帝国主義の時代だとする時代認識を提起するのである。

柄谷の時代認識によれば、これまで帝国主義と呼ばれる時代は、現代を含めて三つあった。ほかの二つは、十八世紀の末と十九世紀の末だ。この三つの時代に共通するのは、巨大なヘゲモニー国家(柄谷はそれを『帝国』と呼ぶ)が後退して、その後に新たなヘゲモニーを求めて有力国家が覇権を競い合うということだ。十八世紀末にはオランダがヘゲモニー国家の地位を失った。十九世紀末にはイギリスがそうなった。現代については、長い間のアメリカによるヘゲモニー体制が、1990年代を境に崩壊して、いまや世界を力づくでまとめあげる「帝国」が存在しなくなった。そこへ、中国やインドなどの新興国も加わって、新たなヘゲモニーを求めて熾烈な競争が起きている。それが現代という時代の根本的な特徴だ、と柄谷は捉えるわけである。

現代の世界経済を1930年代に喩える見方が流行っているが、それは間違っていると柄谷は言う。30年代は、アメリカがヘゲモニーを確立する過程で起きた一時的な現象で、調整の意味合いを強くもっていた。だから比較的短期で(世界大戦の発生というインパクトもあったが)、回復できた。そしてそれを乗り越える形でアメリカがヘゲモニーを確立し、本格的な「帝国」へと飛躍した。そのアメリカがいまやヘゲモニーを失い、世界経済は、過去二度おきた帝国主義の時代へとまたもや突入した、と柄谷は言うわけである。

経済における自由主義は、「帝国」がヘゲモニーを握る時代にこそ花開く、と柄谷は言う。「帝国」というものは、古代のローマ帝国を含めて、自分の域内での諸民族の平等を保障するものだ。「帝国」の枠内で、「帝国」の秩序を尊重する限り、何人といえども平等に取り扱われる。そういう環境の中で自由主義も花開くわけだ。「帝国」時代のアメリカは、普遍的な価値観を掲げ、その価値観に従う限り、すべての人々や諸国家を平等に扱った。無論、冷戦時代にはアメリカの価値観と対立するもの(共産主義陣営)もあったわけだが、それは「帝国」の内部では無視できた。「帝国」の傘の下では、みなが対等な立場で自由な経済活動に打ち込めたのである。

その「帝国」のヘゲモニーが崩壊するとどうなるか。帝国主義の時代状況が現出する、というのが柄谷の主張である。「帝国」不在の「帝国主義」とは形容矛盾のように聞こえるが、柄谷によれば、ヘゲモニー国家不在の中で、次のヘゲモニーをめぐる熾烈な角逐・競争の時代、それが帝国主義の時代ということになるらしい。十九世紀の末に、イギリスがヘゲモニー国家としての役割に耐えなくなったとき、ドイツ、フランス、アメリカといった国々が新たなヘゲモニーをめぐって角逐・競争した。その結果アメリカが勝ち残って、新たなヘゲモニー国家となった、と考えるわけである。そして今日、新たなヘゲモニーをめぐって、中国やインドが大国として登場してきた、というわけである。

歴史は繰り返す、というわけであろう。だがこの循環運動は永遠に続くものではないと柄谷は考えているようだ。この循環運動は資本主義という地盤の上で成立するものだが、資本主義自体には一定の制約がある。資本主義は次の三つを存続の条件としている。無尽蔵な自然、無尽蔵な人的資源、そして技術革新が永遠に続くという前提である。技術革新は人間の智恵に依存しているが、自然と人間自身は浅はかな智恵でどうなるというものではない。こうした資源の存在は、資本主義経済にとってのフロンティアと呼ばれてきたが、そのフロンティアが枯渇する事態が遠くない未来に迫っている。

いまでさえ、たとえばアメリカ資本が成長の限界に直面しているのは、現象的には利潤率の低下が原因と映っているが、根本のところでは、上述した条件が枯渇しかかっていることのあらわれなのである。その条件が全面的に機能しなくなれば、資本主義が行き詰るであろうことは、ある意味子どもの頭でも予測できることだ。これから中国やインドがヘゲモニー国家として君臨する時代が実現しないとしても、これらの国の経済発展は、上述した資源の大規模な搾取をもたらすだろう。その結果、自然の荒廃、人的資源の枯渇と言った状況が全地球規模で展開されるかもしれない。そうなっては、資本主義の発展云々といった議論自体がナンセンスなものになってしまうだろう。

資本主義には終わりがある、という思いは、一定のサークルのなかでは根強い信念となっており、柄谷もその信念の一端を担いでいるようなので、彼が資本主義の未来に暗い影を見ようとするのは、学問的な根拠のほかに、信念上の姿勢にも由来しているかのように見える。

ともあれ、資本主義経済を人類にとっての永遠不変の堅固な前提として捉えるよりは、それを歴史上の現象として相対化する柄谷のような見方のほうが、健全と言えば健全なのかもしれない。







コメント(1)

壺斎様
 頭の片隅にあった資本主義の終焉が気になりだした。それにしても柄谷氏の議論は難しい。今まで自分が考えてきた言葉の再定義からはじめなければならない。また今まで考えても見なかった国家と経済の発展の関わり、つまり国家が経済を規定するとして、経済現象を説明するという考え方、言われてみればなるほど。帝国主義という定義も難しいし、なじめない。「世界共和国へ」、「憲法の無意識」という本を読んでみなければならない。

 憲法の9条の実践は、軍事の主権を国際連合への譲渡が条件と考えれば意味が通じてくる。しかし、現状の国連ではね、日本が率先して軍事の主権を放棄し、国連に預けたら、追随する国がでてくるのだろうか?
 根本的な問題がが改めて私自身に提起されました。まず本を読んでから・・・
 2016/7/30 服部

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