運慶には六人の子どもがいて、みな仏師となった。そのうち今日作品が確実に残っているのは、長男の湛慶、三男康弁、四男康勝の三人である。これらの息子たちが中心となって、慶派の本流を支えた。京都蓮華王院の千躰千手観音以下の諸像は、彼らの集大成と評価されている。もっとも蓮華王院の諸像は、慶派のほか、院派や円派などもかかわっており、当時の仏師を総動員しての壮大な事業であった。
湛慶は、このプロジェクトの中心となり、中尊の千手観音像のほか十点ばかりの千手観音像を作った。湛慶最晩年の作品である。蓮華王院は、後白河法皇によって長寛二年(1164)に創建され、そのさいに千躰観音像が安置されたのであるが、建長元年(1246)の火災で大部分が焼失した。そこで湛慶以下の仏師によって復興され、文永三年(1266)に供養された。
この千手観音像は、湛慶最晩年の作とあって、湛慶の特徴がよく現われていると評価される。父運慶ゆずりの作風を基調にしながらも、よりおだやかで優雅な趣を感じさせる作風である。この像からは、厳粛でかつ力強い印象とともに、穏やかな感じが伝わってくる。
なおこの像自体は、台座の墨書銘によれば、建長三年(1251)七月に作り始め、同六年正月に完成した。その時湛慶は八十二歳であった。
(木造寄木造り 漆箔 像高334.8cm 京都蓮華王院)
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