駅の子たちはどこに行った?:NHKの戦災孤児特集

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NHKが放映した特集番組「駅の子」を見て、色々考えさせられた。「駅の子」というのは、戦後大量に生まれた戦災孤児たちが、上野を始めとした大都市の駅周辺にたむろしていた様子を表現する言葉だ。こうした戦災孤児は、大都市の駅に限らず、戦後日本のあちこちに大量にいたと思われるのだが、その実態についてはこれまであまり知られることがなかった。この番組はその間隙のようなものを埋めようとする意気込みが感じられ、その意味では評価できると思うのだが、なにせ戦後時間が経過しすぎたこともあり、全貌にせまることは出来ていない。

番組によれば、戦後駅の子と呼ばれた戦災孤児たちは、12万人以上いたということだ。この子どもたちは、浮浪児などと言われて、まともな生き方はできず、そのため餓死したり病気で死んだものが多かったと推測されているが、いったいこの12万人にものぼる膨大な数の子どもたちが、どこに消えてしまったのか、いまだに謎に包まれたままである。番組は、そうした駅の子の生き残りとも言うべき人々を登場させて、彼らが舐めた辛酸をあぶりだしていたが、それはそれでわかりやすかったとはいうものの、戦災孤児の実態が全体としてどのようなものだったのかについては、追求しきれていないようだ。

それには無論、日本政府のこの問題への取り組みが中途半端で、戦災孤児の基礎データでさえ作っていなかったという事情もある。NHKといえども、戦災孤児の全体像を把握する能力はないのだろう。断片的なことしか伝わってこない。その断片的なことから浮かび上がってくるのは、戦災孤児たちの絶望であり、その絶望は周囲の大人たちによる迫害とか、政府による無視とかに根差しているということだ。実際、この番組を見ただけでも、戦後の政府が戦災孤児たちにいかに無関心であったか、いまさらながら驚かされるほどである。

当時の政府は、ほかにやることがたくさんあったので、戦災孤児まで手が回らなかったというふうに伝わってくるが、果たしてそれだけか。政府が言うには、当時は戦後の経済混乱で大量の失業者が発生し、また海外からは600万にものぼる引揚者がおしかけて、それらへの対応に追われ、戦災孤児まで手が回らなかったと言うことだ。しかし、これは言い訳にもならないだろう。要するに、声の大きいものに優先的に対応し、声の小さい弱い者は無視したということではないのか。これは日本政府の伝統的な政策である棄民の一つの現れだというべきである。棄民という場合、真っ先に捨てられるのは最も弱い人々であるが、戦後の一時期、その最も弱い者が戦災孤児だったわけだ。

結局日本政府が戦災孤児対策に取り組み始めるのは昭和21年のなかば頃からであり、それも自発的にではなく、占領軍の指示によるものだった。当時の占領軍GHKが、時の日本政府に向かって、街の浮浪児を何とかしろと命令し、それを受けてやむなく取り組んだのであったが、他人に言われてのことだから、浮浪児の為を思ってというより、自分たちのメンツをたてることが優先され、浮浪児は野良犬のように狩りたてられた。世にいう浮浪児狩りである。

浮浪児狩りは、日本だけではなく、同じ敗戦国のイタリアでもあったらしく、デ・シーカの有名な映画「靴磨き」はそうした浮浪児狩りをテーマにしていたが、日本もまた浮浪児を児童福祉の対象としてではなく、治安維持の対象と見ていたわけである。ちなみに、児童福祉法が制定され、浮浪児対策に福祉の視点が入って来るのは昭和22年12月以降のことである。

この番組を見ていると、当該の浮浪児自体の怨念のようなものが伝わって来る。かれらにとって何がつらかったかといえば、飢えや病気もそうだが、もっともつらかったのは社会から疎外されたことだったというのが強烈な言葉として響いて来た。彼らは、自分の受けた仕打ちを振り返るにつけても、日本人というのはなんと冷たい人間の集まりか、と言うのだ。そういう言葉を聞かされると、なんとも情けない気分になる。

ともあれ筆者はこの番組を見て、あの戦後の浮浪児たちはいったいどこに行ってしまったのだろうかという、長年抱いて来た疑問が一層深まるのを感じた。





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