学海先生の明治維新その六十三

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 学海先生の日記に妾の小蓮が初めて登場するのは明治六年二月二十一日である。
「小蓮とともに梅を墨水の梅荘に見る」と言う記事がそれである。
 この日学海先生は小蓮を伴なって墨水の梅荘に梅を見に行き、そこで隠士と思しき三人が月琴・胡琴を演奏しているのを見た。興味を覚えて小蓮とともに聞き入っていると、更に別の一人が現れて一曲を弾じ、名を告げずして去った。
 この当時、墨堤は根岸と並び隠士の遁世地として知られていた。記事に見える人たちもそうした隠士のような人だったように思われる。面白いのは学海先生が妾を伴いながら彼らを見て感興を覚えたことである。妾を伴っていればおそらく気分は晴れやかだったろう。その晴れやかな気分で隠士が琴を弾ずる模様を見れば、いっそうのびやかな気持ちになったに違いない。学海先生にはそういった風雅を愛するところがあった。
 その翌日の日記には、
「小蓮にともしつけさせ、琴城の寓居に至りしに、けふはいとめずらしとて琴花に琴を出させ、小蓮と合奏し、余ら三人詩を賦す」とある。
 これは友人の俣野子玉とともに岩本琴城の寓居を訪ねた折の様子を記したものだが、ここでは妾の小蓮が琴城の妾琴花とともに琴の合奏をする模様が触れられている。この記事からすれば小蓮は音曲の素養があったようである。
 小蓮がどのようないきさつから学海先生の妾になったかは、よくわからない。先生自身詳しく語ることがないからである。間に媒人を立てているところから、おそらく芸妓を身請けしたもののようである。その時期は前回も触れたように、暦が改められた時期の前後のことと思われる。その頃丁度、遊女・芸妓解放令が発令されているから、もしかしたら小連は解放された芸妓であったのかもしれない。借金のくびきから外れ遊廓から解放されたところを、学海先生が引き取った、というのはなかなか興味をそそる推論だ。
 この頃学海先生は麻布材木町の西村勝三の持ち家から日本橋あたりの下宿屋山崎屋に移っていた。そこに妾小蓮及び僕と合わせて三人で住んでいたのである。ところがそこの亭主が貪欲な男で、二か月も経たぬうちに宿銭の値上げを要求してきた。それに腹を立てた学海先生は、どこか適当な所に家を求める決断をした。早速その決断を兄に打ち明け、一緒に家を探すこととなったが、家が見つかるまでの当分の間、兄の家に寄宿させてもらうこととした。学海先生は小蓮と僕とを伴なって兄の家に移った。兄貞幹は弟の妾を見て言った。
「いつから妾を持ったのじゃ?」
「この一月ほど前のことです」
「お淑どのは知っておるのか?」
「いや、まだ話しておりません」
「いい気なものだな。これからずっと家に置いて置くつもりか?」
「はあ、とりあえずは一緒に住むつもりでございます」
「妾を持つこと自体についてはとやかく申さぬが、家内が乱れぬように留意することが肝心じゃ。少なくとも本妻と妾を一つ屋根の下に置くことはまずい。いづれお前も妻子を呼び寄せることになろうが、その時までには妾の処置を決めておかねばならぬぞ」
「はあ、そのように取り計らいたいと存じまする」
 学海先生は墨水や京橋周辺を家を見て回った。小蓮を伴なうこともあった。そんな折に、隅田川のほとりに安宅温泉と称して温浴をさせるところがあると聞き、小蓮とともに浸かりに行った。先生はその清潔ぶりに満足した。安宅というのは、後に商社の名になった地名である。
 先生はなかなか気に入る家が見つからなかったが、ついに八丁堀北島町に気に入った家を見つけて買った。
 かくて四月五日に先生は小蓮を伴なって八丁堀の家に移った。
 その翌日、妻子が佐倉からやってきて、一緒に住むことになった。これは兄貞幹の命令のようなもので、学海先生には小蓮との二人だけの水入らずの暮らしを楽しむ余裕はなかったのである。
 果たして細君の淑は、妾の小蓮が家にいることを見咎めて、夫の学海先生に詰め寄った。
「あのオナゴは何なのですか?」
「いや、歳のはじめの頃から下婢として召し使っておったのじゃ」
「それにしては馴れ馴れしいではありませんか。まるで妾のように見えますよ」
「それはヒガメというものじゃ」
「下婢というなら下婢らしく下女部屋において、毎日の家事をさせるようにしてください。そうでなければ家に置いておく意味はございません。働かぬ女はいりませんし、第一家に二人の女は必要ありません」
 先生の細君がここまできつく言うわけは、小蓮を一目見てその夫の妾であることを読み取ったからである。先生はすっかり弱ってしまった。そこで細君の眼を盗んで小蓮とこんな話をした。
「どうもお前をこの家に置いておくわけにはいかなくなった」
「奥様がこわいのでしょう?」
「うむ、悪いがしばらくこの家を出て、別の場所で暮らしておいてはくれぬか。そのうちに、きちんとした身の振り方を考える」
「身の振り方とはどういうことですの?」
「お前が安心して暮らせるように、こぎれいな家を見つけてやろう」
「そこに旦那様が通っておいでになるのですか?」
「そうじゃ」
 こんなわけで、八丁堀の家に越してから間もない四月十三日に、学海先生は小蓮を家から出して、とりあえず宿屋に寄寓させた。
 その後学海先生は、時たま小蓮を訪ねては一緒に物見遊山をしたり、時には長女も一緒に連れて墨水に遊んだりした。しかしそんな生活に小蓮が嫌気をさしたか、二人はついに破局を迎えた。六月十八日に、学海先生は媒人を介して正式に小蓮との縁を切ったのであった。無論手切れ金は出してやった。
 そんな折、親友の川田甕江が八丁堀北島町の家に訪ねて来た。川田は最近私塾を畳んで修史局に仕官したということだった。
「修史局とは何をするところじゃ?」
「我が国の歴史を編纂するところじゃ」
「既に大日本史とかいろいろ出回って居るが、それと同じようなものかの?」
「政府公認の歴史をまとめるということじゃそうな。したがって拙者が書いた日本の歴史がそのまま政府公認の歴史ということになる。責任は重大じゃ。いい加減な姿勢ではおれぬ」
「それは、そうじゃの。してどんな手づるでその仕事につくことになったのかの?」
「長州の木戸孝允公が拙者に目をかけてくれていることはいつか話した通りじゃが、今回も木戸孝允公の斡旋で修史局に仕官することになった。拙者と一緒に薩州の重野安駅氏も修史の責任にあたることになっておる」
「聞いたことのない名じゃが」
「拙者もこれまで付き合いはないので、どんな男かはよくわからぬ」
「ところで木戸孝允公は今欧米におるはずじゃの?」
「去年の暮に岩倉公を筆頭とする使節団が欧米に向けて旅立って、まだその途上におるはずじゃ。木戸公はそれに出発する前から修史局のことでなにかと世話を焼かれ、その人材として拙者を紹介してくれたのじゃ」
「しかし、この使節団には岩倉公を筆頭として、薩摩の大久保や長州の木戸公も加わり、国を動かす大官がこぞって参加しておる。いわば政府を挙げて外国旅行をしているようなものじゃ。これで我が国の政治はうまくゆくのかの?」
「今の政府は留守政府と言われておるそうじゃ。主人がいないので、別の者が留守を預かっておると言う意味じゃが、その留守政府を薩摩の西郷が切り回して居る。その西郷が征韓論を振りかざして政府を大混乱に陥れているそうで、そのため近く大久保や木戸公が急遽途中で帰国して事態の収拾にあたるじゃろうという噂が立っておる」
「西郷というのは、国を大混乱に陥れるほど実力があるのかの?」
「なにしろ薩摩閥の巨魁じゃからの。こたびの王政復古は西郷がいなければ成功しなかったと言われておるほどじゃ。復古後一時期薩摩に引っ込んでいたが、岩倉公が外国に出かけるにあたって急遽東京に呼び戻し、留守政府を任せたと言われておる。その際岩倉公は西郷に、廃藩置県の実行に必要最低限な処置以外は、何事も急がぬようにと念を押したのじゃが、西郷はそれを越えてさまざまなことを手掛けようとしておる。征韓論はその最たるものじゃ」
「今の日本には征韓の実力があるのかの?」
「いざ征韓ということになれば、清国との衝突も覚悟せねばならぬし、また朝鮮半島を狙っておるロシアとの間でも摩擦が生ずる。そんなわけで木戸孝允公等は西郷の言う征韓論は時期早尚だと見ておられる。いずれ使節団が帰国すれば留守政府との間でひと悶着起るじゃろう」
「また内乱かの?」
「あるいはそうなるやもしれぬ」
 こんな具合にこの二人は日本という国の行く末を彼らなりに案じるのではあった。
 学海先生はまた、佐倉藩の先輩西村茂樹ともあいかわらず親密にしていた。西村の西洋かぶれは相当のもので、或る時は学海先生を促して一緒に洋服をあつらえに行った。その値段が三十円もすると聞いて先生はびっくり仰天してしまった。今の貨幣価値になおすと三十円は百万円以上に相当するのである。
 なお、学海先生の細君が東京へ出て来た時、先生には四人の子がいたのであるが、そのうち三女の珠君は細君の乳の出が悪いので佐倉に残し、二女の琴柱は母親とともに東京へは来たが、やがて細君の実家に連れ戻された。それ故先生のもとには長女の窕と長男の美狭古の二人が残されたのである。







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