旧友の死に驚く

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旧友の死に臨み、敢て"驚く"というのは、悼みの感情より驚きの感情が強いからで、それほど小生の受けた打撃が大きかったということだ。それというのも、その友人とは二か月ちょっと前に一緒に旅行をしたばかりで、その際にはとくに変わった様子も見られなかった。それがまさか死んでしまうとは、小生の想像力の及ばないところだ。しかも死因は癌だという。癌というのは、たいていは激しい痛みを伴うものだから、死の直前まで自覚症状がないということは考えられない。ところがこの男は、たいした自覚症状も訴えないままいきなり昏倒し、そのまま帰らぬ人になってしまったというのだ。人間の命程はかないものはないとよく言われるが、まさにそのことを思い知らされた。

この旧友の名を称して松子という。小生が彼と初めて出会ったのは大学三年生の時で、爾来四十年以上の長い付き合いになる。大学では同じゼミに属していたが、学生時代にはあまり深い付き合いはなかった。ところがたまたま二人が同じ組織に就職したことで、親密に付き合うようになった。その我々二人に、やはり同じような因縁の友人二人を加えた四人でグループを作り、永く交際してきたところだ。折に触れて小宴を催すほか、毎年必ず旅行を共にしてきた。その様子はこのブログでも何度か取り上げたことがある。彼は旅行の世話役を進んで引き受けてくれ、自慢のベンツで我々を様々な所に連れて行ったくれたものだ。

今年も六月の半ば過ぎに彼のベンツに乗せられて浅間山の麓までドライブをしたばかりだった。その折にはいつもと同じ様子で、とくにかわった様子もなかった。それが九月のしょっぱなになって松子の細君から山子に電話があり、急逝したという知らせが舞い込んできたのだ。旅行を共にした一同、我々残された三人と山子の細君を含めて四人が、いずれも大きな驚愕に打たれたのは無理はない。

松子は杉並に家を構えていて、荻窪駅の近くにあるセレモニーホールで葬儀が行われた。山子夫妻、落子及び小生の我々残されたものどもは、語らいあって通夜に赴いた。通夜の席はこじんまりと運営されており、参列者はほとんどが親族ばかりで、友人らしきものは我々のほかには見当たらなかったが、それはおそらく松子の意思によるものだろう。小生も自分の葬儀は親族だけで簡単にあいすますよう家人にかねがね話してある。

坊主が着て読経が始まった。真宗大谷派の坊主で、お経は和語を主体とした哀切な調子のものだった。歌うような、訴えかけるような、その哀切窮まる読経の声に乗って、ときたま"なむあみだんぶ"、"なんまいだ"の称号が聞こえて来る。それを聞いた小生は、世阿弥の夢幻能のなかで響き渡るあの読経の声を思い出した。その声は、「なむあみだぶ、あととむらひてたびたまへ、あととむらひてたびたまへ」と響いたものだが、松子もやはりそのように願っただろうか。

読経、焼香がすんだあと、松子の死に顔を拝んだ。くぼんだ眼下の底に沈んだように見える目と、きつく閉じた唇とが、こころなしかこの世への未練を感じさせないでもなかったが、松子のことであるから、己の運命を己のものとして受け入れたにちがいない。その松子の死に顔を見ながら小生は、やはり世阿弥の能の一曲「融」のキリの部分を無言で口すさんだ。
  ~この光陰に誘はれて、月の都に入りたまふよそほひ、
  あら名残惜しの面影や、名残惜しの面影
漢字一字は違っていても、松子もまた「とおる」という名だったのである。

お浄めの席上松子の細君から、彼の死の事情を詳しく聞いた。夫君の死は細君にも意外だったという。とにかく日頃何等の症状もなく無事を装っていたものが、或日突然昏倒し、その日のうちに再起不能と医師に診断されて茫然とした、症状は末期癌で、全身に転移し、すでに手遅れと診断されたそうである。細君はそれを夫君に正直に告げることができず、当初は脳梗塞といつわっていたが、そうこうするうち、一月あまりで死んでしまった。あっという間のことでした。そう細君は語ってくれたのだったが、その語り口には意思の強さのようなものが感じられた。残された未亡人としては、今後一人で生きていかねばならず、そうめそめそとばかりもしてはいられまい、と小生も同情したところである。

葬儀の席を辞したあと、荻窪駅前のさる和食屋に入って、我々四人だけでお浄めをした。その席上、松子を含めた我々のこれまでの思い出とか、また松子を含めて人の生きざまの如何についての感想を述べあったりした。そのなかで小生のいまだに忘れられないのは、山子が倒れた時に残りの三人で荏原の病院に見舞いに行った帰り、近所の公園で勝海舟の遺跡を見物した時のことだ。松子は海舟のファンらしく、色々とエピソードなども知っていて、その知識の一端を披露してくれた。松子が言うには、海舟は子どもの頃に犬に睾丸を咬まれたことがあって、以来どういうわけか勢力が絶倫になった。海舟の放蕩癖は有名だが、その理由はそんなことにあった、というようなことだった。松子自身は放蕩とは縁がなかったが、そんなことを愉快そうに話したその顔を今でもよく覚えている。

ともあれ、松子の思い出を語るうちにも、我々はクリスチャンでもなく、また念仏の徒でもないので、死の意味についてあれこれと思い悩むようなことはしなかった。我々は死を、身近で自分にもいつかは訪れる出来事と考えている。であるから無暗と慨嘆するようなことはないのである。松子を訪れたものが、やがて自分にも訪れることがわかっているからだ。

それにしても、その訪れ方にはいちおう法則性のようなものがないわけではない。その法則性のようなものに照らしてみれば、松子の死はやや意外だったといわねばならない。というのも松子は、我々四人のなかでは一番年少だったからだ(享年六十八)。

小生は最後に、帰りの電車のなかで一人、世阿弥のあのキリの一節を無言で口ずさんだ次第だ。
  ~この光陰に誘はれて、月の都に入りたまふよそほひ、
  あら名残惜しの面影や、名残惜しの面影




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