映画 夜空はいつでも最高密度の青色だ:石井裕也

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2017年の映画「映画 夜空はいつでも最高密度の青色だ」は、最果タミの詩集「夜空はいつでも最高密度の青色だ」を映画化したものだ。とはいっても原作は詩集であって、ストーリーはない。そこを監督の石井裕也が自分で原作の雰囲気を生かすようなストーリーを作って映画化したということらしい。題名にわざわざ「映画」という枕詞を入れたのは、原作の詩集との差別化を図ったつもりか。

筆者は原作の詩集を読んでいないが、もし映画と何らかのつながりがあるのだとしたら、若い男女の愛の言葉のやり取りからなっているのだろう。その若い男女は映画の中では、女のほうは昼は病院で看護婦をつとめる傍ら夜はガールズバーで働いており、男は建設現場で肉体労働に従事していることになっている。女が夜も働いているわけは、甲斐性のない父親と妹のために生活費を仕送りする必要があるためだ。一方、男のほうは建設現場での日雇いの境遇だ。つまり二人とも、格差社会日本の負組に属する連中だ。

その負組の二人が、見込みのない未来に向かって惰性で生きている。彼らには、今の自分の境遇でさえままならないのだから、まして未来に希望が持てるわけがない。そんな二人の間でも愛は成立する。そんなメッセージが映画からは伝わってくるのだが、原作の詩集は果たしてどうなのか。

女は昼間は病院の看護婦をしており、その病院の女子寮に入っているから、贅沢さえ言わなければ人並み程度の暮らしは出来ているのだろう。男のほうは、日雇で得たわずかな所得でアパート暮らしだ。まだ独身だからなんとか暮らしていけるが、結婚して家族を持つゆとりはない。その男のまわりには、負組の日本人たちがいるほか、フィリピンからの出稼ぎ労働者もいる。いわば日本の底辺の縮図のような環境で男は生きているわけだ。

この二人の男女が触れ合ったきっかけはガールズバーで出会ったことだ。それがきっかけで男の友人と女とがまず仲良くなり、その友人が仕事中に死んだ後、男と女とがひきつけあう。ところが男には女を養う甲斐性がないから、女にたいして積極的になれない。女のほうでも男のひ弱さが気になって、まともに交際する気になれない。

そうこうしているうちに、女の前には昔の恋人が現れ、男の前にも学校の同級生だったという女が現われる。女の恋人はまだ君を愛していると言い、同級生の女は昔あなたを愛していましたと言う。恋人はよりを戻したい様子に見えるが、女はその気になれない。一方同級生は男の気を引こうとして色々威勢のいいことを言うが、それらは虚言だったことがわかる。

そんなことを経て二人の男女は終に結ばれる、というのが映画のストーリーだ。こう言うと、現代日本の矛盾をテーマにしたハードな内容というふうに映らぬでもないが、映画そのものはソフトな作りになっている。人物たちに自己表現が乏しく、いったい何を考え、何を言っているのかわからないところがある。それはおそらく原作の詩集がそうなっているのだろう。詩集ならそれでもよいが、映画は必ずしもそれでよいということにはならない。やはりそこには、一本筋の通ったストーリーと、登場人物の自己表現がなければならない。ところがこの映画には、そのどちらも欠けているにかかわらず、映画として成功し、結構話題にもなった。

自己表現といえば、男が女に婚約記念の飾りを贈るところが出て来る。その飾りの値段が1200円なのについて、女が自分には1200円の価値しかないのか、みたいなことを言う。しかし1200円でも男にとっては大金なのだ。その大金を払って女に贈り物をするのであるから、彼が彼女を愛していることは確かなのだ、そんなメッセージが伝わってくるようになっている。

映画の最後のところで、結ばれた二人が、自分たちは幸せになれるのかな、とつぶやくところが出て来る。彼らは一緒に暮らす決意をする段になっても、自分たちの決断に自信が持てないでいるのだ。そしてそれを自分たちなりに互いに納得させようと思って、自分たちには結婚というものの意味がわかっていないと言うのだ。いじらしいといえば、いじらしい話だ。






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