学海先生の明治維新その六十五

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 明治六年十月政変はいわば武断派と官僚派の権力闘争の観を呈していたが、武断派が敗れて官僚派が権力を牛耳ったことは、全国の不平士族や攘夷派をいたく刺激した。彼らは岩倉や大久保を中心とする官僚派の支配を有司専制と批判し、中には実力を以てこれを排除しようとする動きも強まった。
 明治七年一月十四日に岩倉が襲われた。その日の夜、赤坂の仮の皇居から馬車に乗って退出した岩倉は、喰違見附に差し掛かったところを数人の男たちに襲われた。男たちは馬車に駆け上って岩倉に切りかけたが、岩倉の眉間を掠めただけだった。驚いた岩倉は御者台に身を隠したところ再び背後から斬りつけられて馬車から転げ落ち、どぶのなかに横たわった。それを見た男たちは岩倉が死んだものと勘違いして引き上げた。実際には岩倉は軽症で済んでいたのである。
 この事件は大変な騒ぎをもたらした。各種新聞はその様子を大々的に報道した。学海先生はその様子を東京府知事大久保一翁から聞いた。そして次のように日記に書き記した。
「知事余に告らく、昨夜九時右大臣岩倉公が離宮より朝退せられしに、賊数人ありて狙撃し、その肩と背とを切る。公溝に飛入て免給へりと」
 事実の伝聞を記しているだけで先生自身の感想はない。蓋し先生は有司専制には批判的だったが、不平士族の反政府暴力にはもっと否定的だった。先生としては、政治は暴力を以てではなく、言論を以てこれに当たるべきだったのである。
 政府は犯人逮捕に血眼になった。面子がかかっていたのである。東京全域に非常線が張られたほか、太政官命で全国に賊徒探索を命じた。犯人はあっさりと捕まった。事件の三日後の十七日に九人の実行犯がことごとく逮捕されたのである。犯人は竹内熊吉ら高知県士族で、岩倉が征韓の閣議を覆したのはけしからぬとして天誅を加えた主張した。政府は彼らを形ばかりの裁判にかけ、七月に九人そろって斬首刑に処した。
 反政府の動きはこれに止まらないと予想された。それほど新政府に対する怨嗟の声が国中に満ちていたからである。
 二月には佐賀の乱が起きた。首謀者は十月政変で下野した江藤新平である。
 江藤は維新の大業にたいした功績があったわけではなかった。もともとは岩倉・大久保派の一司法官僚に過ぎなかったが、岩倉らが米欧に出かけて日本を留守にすると、急遽土佐派に接近して司法卿に抜擢された。司法卿としての江藤は、自分の権力拡大に異常な執念を燃やし、司法省の権限を拡大させる一方、その権力を用いて政敵を迫害した。山形有朋や井上薫は江藤から政敵扱いされ、彼らのかかわった汚職事件を次々と暴露され、一時は権力の座から振り落されるところであった。
 江藤は明治六年四月に後藤象二郎や大木喬任とともに参議に任命されたが、これが江藤の絶頂期であった。その江藤が西郷や板垣と共に下野した理由には不自然なものがある。江藤にはもともと思想と言えるようなものはなかった。ただいかにして自分が出世するか、そのことだけを考えていたにすぎない。西郷のような政治理念と言うべきものの持ち合わせはなかったのである。だから江藤が西郷と共に下野を選んだということは、別に征韓論の大義に準じたと言うより、権力闘争の上でのマヌーバーと考えられるのだが、それにしてはお粗末な判断だったと言わざるを得ない。その後の江藤の行動を見れば、彼がいかにいきあたりばったりな判断を繰り返していたかがわかるのである。
 佐賀の乱を起こした時、江藤にはそれなりの勝算があった。西郷のいる鹿児島の不平士族を始め全国の不平士族が呼応するに違いない。その一方、前年からこの年にかけて一揆や打ちこわしといった反政府的な暴動が日本各地に起こっていた。特に九州はその勢いがすさまじかった。自分が反政府に立ち上がれば、全国の不平士族と反政府的な百姓一揆とが相伴って、一気に政府を瓦解させることができる。そう江藤は読んでいたようである。
 だがその読みは外れた。鹿児島をはじめ江藤の乱に呼応して兵をあげるところはなかった。また百姓一揆も江藤のためには起らなかった。孤軍奮闘の状態になった江藤を、政府は全力をあげて襲った。政府軍には近衛兵や東京鎮台の兵もあった。そうすることで江藤らが朝敵であり、その朝敵を征討するのだという意思表示を政府は大々的にしたわけである。
 江藤は西郷を頼って鹿児島に逃れたが保護を断られた。そこで海路土佐に渡り保護を求めたがまたもや断られ、阿波に抜けようとしたところを土佐の甲の浦で捕らえられた。三月二十九日のことである。その十日後の四月九日には簡易裁判が開かれ、江藤ら乱の首謀者十三人に死刑が宣告された。江藤は四月十三日に佐賀で梟首に処せられた。
 江藤が武力を以て政府を倒そうとしたとすれば、板垣は言論を以て政府を倒そうとしたと言えよう。江藤は全国の不平士族の政府への怨念を利用したのに対して、板垣は広範な民衆の政府への不満を動員しようとしたわけである。
 明治七年一月十八日に板垣が中心となって作った「民選議院設立建白書」は、ただに板垣個人の反政府運動ののろしというにとどまらず、日本の自由民権運動にとって記念すべきスタートラインとなったものである。
 この建白書を板垣は、昨年十月に共に下野した後藤、副島、江藤の諸参議及び前の東京府知事由利公正や併せて八人の連名で作成し、これをイギリス人ブラックの発行する新聞「日新真事誌」に発表して、自由民権の意義を広く世間に訴えた。
 この建白書は、現下の政治が独り有司に帰して、政刑情実に成っている。それを改めねば国家土崩するは勢いというもの。それを食い止めるには
「ただ天下の公儀を張るにあり。天下の公儀を張るは民選議院を立つるに在るのみ」と主張した。
 そしてさらにその根拠を、
「人民政府に対し租税を払うの義務あるものは、すなはちその政府のことを予知可否するの権利を有す」ということに置いた。
 これは今日の基準から以てしてもかなり先進的な政治的主張のように聞こえる。だが注目すべきは、板垣がここで民と言い租税を払うの義務あるものと言っているものが、必ずしも一般国民を意味していないということである。板垣がここで依拠している人々とは、まず士族の階層だったのである。一部の有司に政治を専断せしむるのではなく、広く士族の意見を踏まえ、公平な政治を行うべきだ、とうのがここで板垣がとりあえず主張したことだったのである。
 板垣がこう主張するわけは、王政復興の大業は自分を含めて士族の力によって成功したものである。とりわけ板垣は西郷隆盛と並んで東征の総司令官をつとめ、維新政府の威光を全国に知らしめた張本人である。そんなこともあって板垣としては、自分たちこそ新しい政治のかじ取りになるべきだという思いが強かった。ところが維新の大業がひとまずなるや、自分や西郷のような本当の功労者が退けられ、たいした功績もない連中が権力の座について威張りくさっている。これは甚だ正義に欠けることだ。そういう思いが板垣を駆り立ててこの民選議院設立建白書の起草に至らしめたのだと思われる。
 なお、この起草には江藤の名もあるが、江藤はなにも自分の政治思想に従って名を連ねたわけではない。彼は彼なりに政府打倒の計画を持っていて、その計画にこの民選議院設立建白書が何らかの役に立かもしれない、そう思って名を貸しただけなのだろうと思われる。
 以上は民選議院設立建白書をめぐる舞台裏だが、そうした舞台裏の思惑を超えて、この設立建白書は日本の政治に大きな影響を与えるようになる。それはやがて自由民権運動の巨大な潮流へと合流していくわけである。
 もっとも学海先生自身は、民選議院設立運動にあまり強い関心は示していない。すくなくともその動きを自主的に追求しようとした形跡は見られない。先生のこの問題に関する情報源は主として西村茂樹であり、先生は西村を通じて自由民権の何たるかを聞き知ったのである。
 その西村にしても、徹底した民権論者ではなかった。彼は新しい時代に武士だけが政治にかかわるのはナンセンスだと思っていたが、かといって国民大衆を政治の主体としては評価していなかった。国民の多くは痴愚蒙昧なのであって、彼らに政治を判断する能力はない。その能力を持つものは主に士族の出身者であるが、士族だからと言って生まれながらにそうした知見をもっているわけではない。だからこれからの時代は、士族平民を問わず、智慧のあるものが中心になって国の政治を進めねばならぬと考えていた。そうした智慧のある人々を広く政治の場に参加せしめ、そのことで国民が一体となって国の近代化とそれがもたらす発展に意を配らねばならぬ、というのが西村の基本的な考え方だった。学海先生もその考え方には大いに共鳴するところがあった。先生が思うには、自分も又智慧のある人材である。その智慧のある人材を有効に生かすことこそが、これからの政治のあるべき姿のように思われたのである。







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