子捨てと近親相姦:大江健三郎「万延元年のフットボール」

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「万延元年のフットボール」は、主人公の僕が自宅の敷地に掘られた穴の中で瞑想するシーンから始まる。そして、四国の山の中の土蔵の地下室でやはり瞑想するシーンで終わる。厳密にはそこで終わるわけではないが、小説のクライマックスとして、一編の物語がそこで事実上閉じられるわけだ。始めの瞑想と終りの瞑想とでは、内容が異なる。それは物語が進行してきたことをあらわしている。主人公は始めの瞑想によって、自分が世界から疎外されていると感じ、終わりの瞑想によって、自分がなんとか世界とつながっていることを感じる。その感じが主人公に救いの感情を与える。そういう意味では、この小説は、主人公に寄り添った視点からは、失った自分を取り戻す話だと言うことができる。


主人公の僕がこの世界から疎外されてしまったと感じるようになったについては、二つの出来事が働いているというふうに設定されている。一つは息子を事実上捨ててしまったこと、もう一つは友人の自殺である。息子の問題については、「個人的な体験」で取り上げた大江自身の個人的な体験に根差したもので、障害を持った息子にどう向き合うかという問題のバリエーションとして提起されている。大江は、「個人的な体験」においては、自分が親として、脳に重大な障害を持って生まれてきた息子の運命を、自分の運命として受け入れるという選択をしていた。つまり、その選択をした大江は、自分自身をモラリストとして選びとったわけである。それに対してこの小説では、主人公の僕は脳に生涯のある息子の運命を自分の運命として受け入れることができず、息子を重度障害児施設に丸投げすることによって、事実上親としての責任を放棄したことになっている。つまり僕は子を捨てたわけであり、その選択に妻も深くかかわっている。その子捨てについてのこだわりが、彼ら夫婦を倫理的に破綻させ、ひいては心を病ましめることともなるのである。

友人の自殺については、僕はそれが息子の障害よりも大きなショックだったかのように言っているが、何故この友人の自殺がそれほど大きなインパクトを僕にもたらしたのか、かならずしも明確には書かれていない。この友人は、僕の弟とアメリカで会ったあと、日本に戻って来て、朱色の塗料で頭と顔をぬりつぶし、素裸で肛門に胡瓜をさしこみ、縊死したのだったが、その死が僕を深刻に脅かしたのだった。僕はなぜそんなに脅かされたのか。それはおそらく自分も又同じような死に方を選ぶのではないかと、無意識のうちにも感じたからだというふうに伝わって来る。もっとも僕はそれを意識的に自覚しているわけではない。ただ無暗に恐怖を感じるだけだ。ただ彼の妻は、夫のそうした恐怖に気づいており、彼も又頭と顔に朱色の塗料を塗って縊死するのではないかと危ぶんでいる。

ともあれ、主人公の僕が絶対的なうつ状態とでも言うべき状況に陥ってしまったのは、息子のことで極度のストレスを感じていた時に、友人の異常な自殺に接したからだというふうに伝わって来る。僕はこのうつ状態から、自力では抜け出られないだろう。彼をそこから抜け出させるのは、弟への奇妙な連帯感と妻からおずおずと差し伸べられた手なのである。その手は、弟の子を身ごもってしまった妻が、小説の終わりのところで瞑想に耽っていた夫の僕に向かってさしのべたものだ。ぼくをその差し伸べられた手をよりどころにして、世界と和解するのである。

こういうわけで、僕の陥ったうつ状態と、同じようにうつ状態に陥ってアルコール漬けになった妻との関係をめぐっては、彼らの共通の子どもがその原因としての役割を果たしている。主人公の場合にはこれに友人の自殺が重なるわけだ。それらが主人公の僕を憂鬱にし、ひいては絶対的なうつ状態に追い込む。その辺の心理的な流れを大江は次のように書いている。友人の遺体を処理したあと家に戻った時の描写だ。

「かれ(息子)はなにひとつ要求しないし、絶対に感情を表現することがない。泣くことすらもない。時々かれが生きているのかどうか疑われることもある・・・眠りの無意識にいたるまぎわに、ただひとりの友人は頭を真っ赤に塗って縊死してしまったし、妻は思いがけなくも突然に酔っぱらっているし、息子は白痴だ、という認識が新鮮な驚きのようにやってきた」。その驚きが僕を憂鬱にし、救われようのないうつ状態に陥らせるのである。

これに対して小説のもう一人の主人公であり、この小説を物語として引っ張っていく推進役の弟=タカについては、また別のことが彼の行動を説明する背景として提起されている。それは、妹との近親相姦に対するタカの自責の気持である。僕とタカの兄弟は、両親の死後別々に暮らすこととなり、タカは白痴の妹と一緒に叔父にあずけられていたのだったが、その妹と近親相姦を犯した上に、そのことに絶望した白痴の妹を自殺に追いやってしまった。そのことがタカにとってはトラウマとなった。彼の行動の不可解さは、このトラウマに根差していると、小説からは伝わって来るのである。

だが、このトラウマが、タカが四国の山の中の集落を舞台に繰り広げる壮大な冒険とどのようなかかわりを持っているのか、そこはかならずしもすっきりとは書かれていない。タカが山の中で繰り広げる冒険は、万延元年にこの集落で起きた一揆をそのままに再現させ、そのことを通じて、この集落に新しい歴史を創造しようとするものであるが、その一揆の指導者としてのタカと、妹と近親相姦を犯し、それが精神的なトラウマとなっているタカとの間にどんなかかわりがあるのか、いまひとつすっきりしない。

一揆とは世直しのことである。つまり世の中を新しく生まれ変わらせることである。だから未来に向けて進んでいく行動である。それに対して精神のトラウマは過去の抜け殻のようなものである。その二つが一人の人格のなかで共存している。そこから物語に盲点のようなものが生じる。というのも、タカはこの物語にとっての英雄として位置づけられているにかかわらず、内心においては英雄とは最も遠いキャラクターとして設定されているからだ。英雄は基本的にはおおらかで裏表がなく、人々を感服させ、またどんな困難も克服するほどの強さを持っていなければならないはずだ。ところがこの小説の中のタカは、裏表がある人物で、周囲の人たちを困惑させ、自分自身も自殺するような弱さを持っている。弱い英雄とは形容矛盾のようなものだ。その弱い英雄に物語を推進させようとすれば、おのずから物語として破綻せざるをえない。この小説はどうも、全体構想のレベルで破綻しているのではないかと、強く疑われるところだ。

ともあれタカは二つの遺産を残すことで、この小説を閉じさせる役割は果たしている。一つ目の遺産は僕の妻にはらませた子どもだ。妻はこのことで再び現実世界との接点を見出すのだし、夫とともにもう一度人生をやり直す決心をつける。もう一つの遺産は、彼の兄である僕に、万延元年の一揆の意味と昭和の今彼が行った冒険的な騒動について反省させ、そのことを通じて人間が生きるということの意味を考えさせたことだ。僕はその考えに促される形で、現実世界との和解を果たすのである。







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